丹下左膳
こけ猿の巻
林不忘

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伊賀《いが》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)源《げん》三|郎《ろう》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+戛」、第3水準1−15−17]々
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   伊賀《いが》の暴《あば》れん坊《ぼう》


       一

 さっきの雷鳴で、雨は、カラッと霽《は》れた。
 往来の水たまりに、星がうつっている。いつもなら、爪紅《つまべに》さした品川女郎衆の、素あしなまめかしいよい闇だけれど。
 今宵は。
 問屋場の油障子に、ぱっとあかるく灯がはえて、右往左往する人かげ。ものものしい宿場役人の提灯がズラリとならび、
「よしっ! ただの場合ではない。いいかげんに通してやるゆえ、行けっ!」
「おいコラア! その振分《ふりわけ》はあらためんでもよい。さっさと失せろっ」
 荷物あらための出役《でやく》と、上り下りの旅人のむれが、黒い影にもつれさせて、わいわいいう騒ぎだ。
 ひがしはこの品川の本宿《ほんじゅく》と、西は、琵琶湖畔《びわこはん》の草津と、東海道の両端で、のぼり下りの荷を目方にかけて、きびしく調べたものだが、今夜は、それどころではないらしい。
 ろくに見もせずに、どんどん通している。
 大山《おおやま》もうでの講中が、逃げるようにとおりすぎて行ったあとは、まださほど夜ふけでもないのに、人通りはパッタリとだえて、なんとなく、つねとは違ったけしきだ。
 それもそのはず。
 八ツ山下の本陣、鶴岡市郎右衛門《つるおかいちろうえもん》方《かた》のおもてには、抱《だ》き榊《さかき》の定紋《じょうもん》うった高張《たかはり》提灯を立てつらね、玄関正面のところに槍をかけて、入口には番所ができ、その横手には、青竹の菱垣《ひしがき》を結いめぐらして、まんなかに、宿札が立っている。
 逆目《さかめ》を避けた檜《ひのき》の一まい板に、筆ぶとの一行――「柳生源三郎様御宿《やぎゅうげんざぶろうさまおんやど》」とある。
 江戸から百十三里、伊賀国柳生の里の城主、柳生対馬守《やぎゅうつしまのかみ》の弟で同姓《どうせい》源《げん》三|郎《ろう》。「伊賀《いが》の暴《あば》れン坊《ぼう》」で日本中にひびきわたった青年剣客が、供《とも》揃いいかめしく東海道を押してきて、あした江戸入りしようと、今夜この品川に泊まっているのだから、警戒の宿場役人ども、事なかれ主義でびくびくしているのも、むりはない。
「さわるまいぞえ手をだしゃ痛い、伊賀の暴れン坊と栗のいが」
 唄にもきこえた柳生の御次男だ。さてこそ、何ごともなく夜が明けますようにと、品川ぜんたいがヒッソリしているわけ。たいへんなお客さまをおあずかりしたものだ。
 その本陣の奥、燭台のひかりまばゆい一間の敷居に、いま、ぴたり手をついているのは、道中宰領《どうちゅうさいりょう》の柳生流師範代、安積玄心斎《あさかげんしんさい》、
「若! 若! 一大事|出来《しゅったい》――」
 と、白髪《しらが》あたまを振って、しきりに室内《なか》へ言っている。

       二

 だが、なかなか声がとどかない。
 宿《しゅく》は、このこわいお客さまにおそれをなして、息をころしているが、本陣の鶴岡《つるおか》、ことに、この奥の部屋部屋は、いやもう、割れっかえるような乱痴気《らんちき》さわぎなので。
 なにしろ、名うての伊賀の国柳生道場の武骨ものが、同勢百五十三人、気のおけない若先生をとりまいて、泊まりかさねてここまで練ってきて、明朝《あす》は、江戸へはいろうというのだから、今夜は安着の前祝い……若殿源三郎から酒肴《しゅこう》がおりて、どうせ夜あかしとばかり、一同、呑めや唄えと無礼講の最中だ。
 ことに、源三郎こんどの東《あずま》くだりは、ただの旅ではない。はやりものの武者修行とも、もとより違う。
 源三郎にとって、これは、一世一代の婿《むこ》入り道中なのであった。
 江戸は妻恋坂《つまこいざか》に、あの辺いったいの広大な地を領して、その豪富《ごうふ》諸侯《しょこう》をしのぎ、また、剣をとっては当節府内にならぶものない十方不知火流《じっぽうしらぬいりゅう》の開祖、司馬《しば》老先生の道場が、この「伊賀のあばれん坊」の婿いりさきなのだ。
 司馬先生には、萩乃《はぎの》という息女があって、それがかれを待っているはず――故郷《くに》の兄、柳生対馬守と、妻恋坂の老先生とのあいだには、剣がとり持つ縁で、ぜひ源三郎さまを萩乃に……という固い約束があるのである。
 で、近く婚礼を――となって、伊賀の暴れん坊は、気が早い。さっそく
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