その壺は、この俄《にわか》ごしらえの父が、預かってやる。これからは、河原の二人暮しだ。親なし千鳥のその方《ほう》と、浮世になんの望みもねえ丹下左膳と、ウハハハハハ」
血《ち》の哄笑《こうしょう》
一
子供の使いじゃあるまいし、壺をとられました……といって、手ぶらで、本郷の道場へ顔出しできるわけのものではない。
あの端気[#「端気」に「ママ」の注記]丹波が、ただですますはずはないのだ。
首が飛ぶ……と思うと、与吉は、このままわらじをはいて、遠く江戸をずらかりたかったが、そうもいかない。
いつの間にか、うす紫の江戸の宵だ。
待乳山《まつちやま》から、河向うの隅田の木立ちへかけて、米の磨《と》ぎ汁のような夕靄《ゆうもや》が流れている。
あのチョビ安というところ天売りの小僧は、なにものであろう……丹下の殿様は、あれからいったいどういう流転《るてん》をへて、あんな橋の下に、小屋を張っているのだろうと、与吉のあたまは、数多《あまた》の疑問符が乱れ飛んで、飛白《かすり》のようだ。
思案投げ首。
世の中には、イケずうずうしい餓鬼もあったものだ。それにしても、悪いところへ逃げこみやがって――驚いた! 丹下左膳とは、イヤハヤおどろいた!
ニタニタッと笑った時が、いちばん危険な丹下左膳、もうすこしで斬られるところだった。あやうく助かったのはいいが、またしても心配になるのは、なんといって峰丹波様に言いわけしたらいいか……。
それを思うと、妻恋坂へ向かいだした与の公の足は、おのずと鈍ってしまう。
しかし待てよ、駒形高麗屋敷と、吾妻橋と、つい眼と鼻のあいだにいながら、櫛巻きの姐御は、丹下様が生きてることを知らねえのだ。あの左膳の居どころを、お藤姐御にそっと知らせたら、またおもしろい芝居が見られないとも限らない……。
そんなことを思って、ひとり含み笑いを洩らしながら、与吉がしょんぼりやってきたのは、考えごとをして歩く道は早い、もう本郷妻恋坂、司馬道場の裏口だ。
お待ち兼ねの柳生の婿どのに会わぬうちは、死ぬにも死にきれぬとみえて、司馬老先生は、まだ虫の息がかよっているのだろう。広いやしきがシインと静まりかえっている。この道場によって食べている付近の町家一帯も、黒い死の影におびえて、鳴り物いっさいを遠慮し、大きな声ひとつ出すものもない。
なんと
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