あせりぬいている顔つきだった。
二
「神奈川、程《ほど》ヶ|谷《や》のほうまで、迎いの者を出してありますから、源三郎様のお行列が見えましたら、すぐ飛びかえって注進することになっております。どうぞ御安心遊ばして、お待ちなさいませ」
まことしやかなお蓮さまの言葉に、老先生は、満足げにうち笑《え》んで、
「源三郎に会うて、萩乃《はぎの》の将来《ゆくすえ》を頼み、この道場をまかせぬうちは、行くところへも行けぬ。もはや品川あたりに、さしかかっておるような気がしてならぬが、テモ遅いことじゃのう」
と司馬先生は、絶え入るばかりに、はげしく咳《せ》く。
いまこの室内に詰めているのは、医師をはじめ、侍女、高弟たち、すべてお蓮さま一派の者のみである。老先生と柳生対馬守とのあいだにできたこの婚約を、じゃまして、これだけの財産と道場を若い後妻お蓮様の手に入れ、うまい汁を吸おうという陰謀なのだ。
剣をとっては十方不知火、独特の刀法に天下を睥睨《へいげい》した司馬先生も、うつくしい婦人のそらなみだには眼が曇って、このお蓮さまの正体を見やぶることができなかった。
十方不知火の正流は、ここに乗っ奪《と》られようという危機である。
多勢が四方から、咳《せ》き入る先生をなでるやら、擦《さす》るやら、半暗《はんあん》のひと間《ま》のうちが、ざわざわ騒ぎたったすきに乗《じょう》じて、お蓮さまはするりと脱け出て、廊下に立ちいでた。
嬋妍《せんけん》たる両鬢《りょうびん》は、秋の蝉《せみ》のつばさである。暗い室内から、ぱっとあかるい午後の光線のなかへ出てきたお蓮様のあでやかさに、出あい頭《がしら》に、まぶしそうに眼をほそめて、そこに立っているのは、代稽古主席《だいげいこしゅせき》、この剣術大名の家老職といわれる峰丹波《みねたんば》だった。
「いかがです、まだ――」
六尺近い、大兵《だいひょう》の峰丹波である。そう太い声で言って、にっと微笑《わら》った。
まだ老先生は息を引きとらぬか――という意味だが、さすがに口に出し兼ねて、語尾を消した。
「早くかたづくといいのにねえ」
とお蓮さまは、うつくしい顔をしかめて、かんざしで髪の根を掻きながら、
「品川から、なんとかいって来た?」
「いや、一行はいまだに本陣に頑張って、威張っておるそうですが――」
「あの、手紙をくわえた首は、だ
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