までもなく根津曙の里。
 その曙の里の道場。
 奥の書院に、諏訪栄三郎と弥生が、あおざめた顔をみつめあって、息づまる無言のまま対座している。
 鉄斎をはじめ横死者《おうししゃ》の遺骸は、道場に安置されて、さっきから思いがけない通夜《つや》が始まっている。二人はその席を抜けて、そっとこの室へ人眼を避けたのだ。悲しみの極を過ぎたのだろう、もう泣く涙もないように、弥生はただ異様にきらめく眼で、憮然《ぶぜん》として腕を組んだ栄三郎の前に、番《つがい》を破られて一つ残った坤竜丸が孤愁《こしゅう》を託《かこ》つもののごとく置かれてあるのを見すえている。
 遠く近く、ジュウン……ジュンという音のするのは焚き火に水を打って消しているのである。いきなり障子の桟《さん》でこおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]が鳴き出した。
「まったく、なんと申してよいやら、お悔《くや》みの言葉も、ありませぬ」
 一句一句切って、栄三郎は何度もいって言葉をくり返した。
「御秘蔵の乾雲丸が先生のお命を絶とうとは、何人《なんびと》も思い設けませんでした。がしかし、因縁《いんねん》――とでも申しましょうか、離れれば血を見るという乾雲は、離れると第一に先生のお血を……」
「栄三郎様!」
「いや、こうなりましたうえは、いたずらに嘆き悲しむより、まず乾雲を取り返して後難を防ぐのが上分別かと――」
「栄三郎さまッ!」
「それには、私に一策ありと申すのが、刀が刀を呼ぶ。乾雲と坤竜は互いにひきあうとのことですから、もし、私に、この坤竜丸を帯して丹下左膳めをさがすことをお許しくださるなら、刀同士が糸を引いて、必ずや左膳に出会いたし……」
「栄三郎さまッ!」
「はい」
「あなたというお人は、なんとまあお気の強い――刀も刀ですけれど弥生の申すことをすこしもお聞きくださらずに」
「あなたのおっしゃること――とはまたなんでございます?」
「まあ! しらじらしい! あなたさえ今日勝つべき仕合にお勝ちくださったら、こ、こんなことにはならなかったろうと……それを思うと――栄三郎様ッ、お恨み、おうらみでございます」
「勝負は時の運。私は他意なく立ち合いました」
「うそ! 大うそ!」
「ちとお謹《つつし》み――」
「いいえ。あなたのようなひどい方がまたとございましょうか。わたしの心は百も御承知のくせに、女の身としてこの上もない恥を、弥生は、きょう
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