かっていても、その徹馬に負けた栄三郎を今から出すわけにはゆかない。栄三郎もこの理をわきまえればこそ辞退したのだ。何者とも知れない隻腕の剣豪丹下左膳、そこで、刀痕あざやかな顔に強情な笑《えみ》をうかべ、貼り紙を楯《たて》に開きなおって、乾雲丸《けんうんまる》と娘御《むすめご》弥生どの、いざ申し受けたいと鉄斎に迫った。いや、あれは内輪《うちわ》の賞で、他流者には通用せぬと説いても、左膳はいっこうききいれない。老いたりといえども小野塚鉄斎、自ら立ち向かえば追っ払うこともできたろうが、今日は娘の身にも関係のあること、ここはあやして帰すが第一、それには乾雲丸さえ許せば、よもや娘までもと言うまい――こう考えたから、そこは年輩、ぐっとこらえて、丹下を一の勝ちとみとめた。
で、書院から捧持《ほうじ》して来た関の孫六の夜泣きの名刀、乾雲丸は丹下左膳へ、坤竜丸《こんりゅうまる》は森徹馬へと、それぞれ一時鉄斎の手から預けられた。
参詣の行列。
泣きぬれた顔を化粧《けわ》いなおした弥生が、提灯を低めて先に立つと、その赤い光で、左膳はじっと弥生から眼を離さなかったが、弥生は、あとから来る栄三郎に心いっぱい占められて気がつかなかった。
やがて、ぞろぞろと暗い庭をひとまわりして帰ると、それで刀を返上して、ただちにお開き……焚き火も燃えよう、若侍の血も躍ろう――という騒ぎだが、この時!
自分の坤竜丸と左膳の乾雲丸とをまとめて返しに行くつもりで、しきりに左膳の姿を捜していた徹馬が、突如|驚愕《おどろき》の叫びをあげた。
「おい、いないぞ! あの、丹下という飛入り者が見えないッ!」
この声は、行列が崩れたばかりでがやがやしていた周囲を落雷のように撃った。
「なにイ! タ、丹下がいない?」
「しかし、今までそこらにうろうろしてたぞ」
たちまち折り重なって、徹馬をかこんだ。
「彼刀《あれ》をさしたままか?」
その中の誰かがきくと、徹馬は声が出ないらしく、
「うん……」
続けざまにうなずくだけ――。
乾雲丸を持って丹下左膳が姿を消した。
降って湧いたこの椿事《ちんじ》!
離れたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤《きょうらんどとう》、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刀が、今や所を異にしたのだ!
……凶の札は投げられた。
死肉の山が現出
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