、あまり酒の味が好いので、竜神さまこのところすっかり嬉しがってしまい、近いうちに自身陸へ上って和泉屋を訪れ、いまだ人界に知られていない家業繁昌の秘法を親しく主人に伝授したい希望を側近の者に洩らしているとのこと。
と聞いて、今度は和泉屋が嬉しがった。どうかいつでもお越を願います。と女に頼んでみると、善は急げというからしからば明晩がよかろう。竜神のほうは大丈夫わたしが仲に立って纏《まと》めてみせるからそれではこうこう、こうして待っていて下さい。時刻は丑満《うしみつ》、わたしが竜神を御案内します――話は早い。万端《ばんたん》なにくれとなくてはずを決めて間もなく女はいそいそ[#「いそいそ」に傍点]として波間へ消えて行った。
さて、何しろ今夜こそはお顧客《とくい》の竜神がやって来て、人の知らないありがたい御法を授けて下さるというので、つぎの日一日、和泉屋の主人は上の空で暮らした。夜になるのを待って、女にいわれたとおりに家族は全部親類へ預け、召使いにも一人残らず一晩の暇をやって、これも女と約束したことだが、広い家の隅々にまで百目蝋燭《ひゃくめろうそく》を立てつらねて、ひとりつくねん[#「つくねん」に傍点]と待っていると――風が出たか、古い椽《たるき》がみし[#「みし」に傍点]と鳴ったりしてなんとも物凄いようだ。
昼のうちから用意した竜神の好きそうな物をそれへ並べて、酒の燗もできている。退屈だし恐《こわ》いから、爺さんお先に手酌でちびちび[#「ちびちび」に傍点]やっていた。
と、刻限。表の戸が細目にあいて、いつもの白衣の女がはいって来た。背後を向いてさし招いている。
さてはいよいよ竜神のお成《な》り。おやじは上り框《がまち》に平伏した。足音がして誰か眼の前に立ったようす。
おそるおそる頭をもたげた主人、一眼見るよりあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだというが無理もない。
赤くなった黒木綿の紋付にがんどう[#「がんどう」に傍点]頭巾、お約束の浪人姿が、どきどきするような長い刀《やつ》を引っこ抜いて立っている。女はにっ[#「にっ」に傍点]として戸をしめると、
「お爺さん、びっくりさせてすまないねえ。じたばたすると危ないよ。わたしの竜神はちっ[#「ちっ」に傍点]とばかり気が短いんだから、ほほほ。」
という挨拶で、あとは造作《ぞうさ》もない。おやじが口へ手拭を押こまれて、菰《こも》で簀巻《すまき》にされてふるえているあいだに、竜神とその使女はどこからどこまで家捜しして、あくる朝、家族と店の連中が帰ってきた時には、現金はもちろん金目の物は何一つ残っていなかったという、まことにさっぱり[#「さっぱり」に傍点]したはなし。
いやはや涼しい真似をしやあがる――なんかと、とかく、よくないことには感心するやつが現れてくる。どうもえらい評判だ。これを聞きこんだのが花川戸の親分と呼ばれていた御用聞きの早耳三次で、
「女白浪《おんなしらなみ》だから、蜒女《あま》あたりが動かねえところだろう。」なんて洒落みたいな見込みをたてた。
蜒女上りの莫連女《ばくれんもの》が情夫《おとこ》とぐる[#「ぐる」に傍点]で仕組んだ手品にちげえねえ。どこか近所に巣をくっていて、毎日夕方になると白衣の上から水をかぶって出かけて行って、まんま[#「まんま」に傍点]と和泉屋を釣りだし、おやじがついて来たと見たら、しばらく海中に漬って冷たい思いをする。根が蜒女だから平気なわけだ。こうしていいかげん不思議を見せたのち、例の竜神ばなしを持ちかければ、迷信と慾の深い旧弊者《きゅうへいもの》はたいがいひっかかるだろう。そうなれば口一つで囲みを解き、しまりをあけさせゆうゆう無人の境をゆくあざやかさ。なんとも器用なものだ。
ふてえあま[#「あま」に傍点]だ――というんで、内々三次が嗅ぎ廻っていると、江戸は口が多い。間もなく、江の島で蜒女をしてたことがあるという女を深川の古石場で押えた。侍のほうは逃げてしまったが、女はべつに悪あがきもせずにお繩を頂戴した。黒襟《くろえり》の半纏《はんてん》のまんま、長火鉢のまえから引っ立てられて行った姿は、なに、水の垂れるほどじゃあなかったが、ちょいとした女だったそうだ。
底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
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