、考えるまでもなく、そんな女は兼久へは来なかった。で、きっぱりとそのむねを答えると、男はひどく落胆したようすだったが、
「そうですか。やっぱりお店へも来ませんでしたか。しようがねえなあ。」
と、しばらくひとりでこぼしていたが、やがて思いきったように向き直って、次のようなことを話しだした。
この男は、甲府の町のある家主で、三月ほど前、自分の店《たな》に十年も住んでいた独り者のお婆さんが死んだので、そのあと片付けをすると、意外にもお婆さんが床下に二百両という大金を大瓶へ入れて埋めてあったのを発見した。それと同時に、書置きが出てきて、その文面によると、お婆さんにはたった一人の娘があって、子供の時に喧嘩して家を飛び出して行ったが、なんでも風の便りでは、このごろは江戸にいるらしいとのことだから、どうかして娘を探しだしてこの金をそっくり[#「そっくり」に傍点]届けてもらいたいとの遺言であった。そこで、ながらく世話をしたお婆さんのことではあり、ことに死人の望みなのだから、土を掘ってもその娘を探して、金を渡してやらなければならないというので、根《ね》が真面目な家主は、金のことだけあって、他人《ひと》には委《まか》せられない。すぐにあちこち聞き合わせたのち、この人相書を作って、自分で江戸へ出て来たのだった。
それから今日まで二タ月ほどのあいだ心当りを探ってみると、それらしい娘が江戸にいて、何を商売にしているものか、渡り者みたいに落ちぶれて次からつぎと質をおいてまわっていることがわかった。そこで甲府の家主が、片っ端から江戸じゅうの質屋を歩いてみると、寄ったところもあるし、寄らないところもある。ところが、ここにもう一つ不思議なことは、その女が立ち寄っておいたという質草が、いつもきまって同じ物だった――蝶々の彫りをした平《ひら》うちの金かんざし。
どういう量見《りょうけん》で、どこへ持って行ったってあまり貸しそうもない金かんざしなどをぐるぐる[#「ぐるぐる」に傍点]方々の質屋へ出したり入れたりして歩いているのかわからないが、とにかく、行った質屋へは必ず蝶々彫り平打ち金かんざしを質において、二、三日して受け出しに来ている。その寄った質屋のあとを辿《たど》ると、どうやら品川からこっちへ来て、もうそろそろ[#「そろそろ」に傍点]このへんへ現われるころだというのだ。
「それで、ちょっと来てみたんですがね、私も国に用があるし、そういつまでも探し廻っているわけにもゆかない。早く探しだして金を渡しちまわなくちゃあ、死んだ婆さんへ気がすまなくてしようがない。金は宿に持って来てあります。でね、この人相書の黒子の女がいまお話しした金かんざしを質におきに来たら、ちょい[#「ちょい」に傍点]と押さえておいて、私まで知らせてくれませんか。宿ですか、馬喰町《ばくろちょう》の相模屋《さがみや》てえのに旅籠をとっていますから、どうぞひとつくれぐれもお願いします。」
こう言って帰って行った家主のうしろ姿へ、三人は感心して首を振った。
何という堅い仁《ひと》だろう。今どき珍しい美しい話だ。その娘さんが見え次第、小僧を馬喰町へ走らせることに相談して、兼久の店では、それから毎日きょうか明日かと女の来るのを待っていた。
ところが、女は来ない。
そのうちに年の暮れの忙しさにまぎれて、忘れるともなく忘れて年が改まった。そうしてやがて冬も残りすくなになり、吹く風にも春の呼吸が感ぜられるころ、ある朝、ごめん下さいとはいって来たのを見ると、これこそ去年甲府の家主のはなしに聞いた黒子の女だったから、小僧は奥へすっ飛んで知らせる。出て来た主人へ女が質草として差し出したのが、脚に蝶々の彫りのある平打ちの金かんざしだったので、番頭と主人が右左から甲府の大家の話を伝えると、女はきょとん[#「きょとん」に傍点]とした顔になって、
「いいえ。私は甲府の者ではありません、父も母もあって本所のほうに住んでおります。第一、このかんざしを質におきますのは、今日がはじめてでございます。その甲府のお話は、お人違いでございましょう。」
こう言われて兼久も番頭ものけ[#「のけ」に傍点]反《ぞ》るほど驚いた。見ればみるほど、家主の話した娘にそっくりである。年ごろ顔かたち、みすぼらしい服装《なり》――それに何よりも右の眼の下の大きな黒子とこの蝶々彫り平打ちの金かんざしである。
主人と番頭がなおも交《かわ》るがわる訊き返してみたが、女はあくまでも本所の者で、何の関係もないと言い張った。
この時だった! 堅人で通っていた質屋久兵衛の頭へ、万破れることのない奸計《かんけい》が浮んだのは。
黒子といい、かんざしと言い、これほど似た人間がまたとあろうか。ことに話によれば、あの甲府の家主も女を直《じか》には知らないのである
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