立てられてみちゃあ、あっしも男だ。これから、これからすぐに踏ん込んで――。」
塞《せ》かれていた水が一度にどっ[#「どっ」に傍点]と流れ出るように、伊助は吃《ども》りながら何事か言いたてようとする。貧乏世帯でも気苦労もなく普段からしごく晴々していた若女房の不意の入水、これには何か深い仔細《しさい》がなくてはかなわぬと先刻から眼惹き袖引き聴耳立てていた周囲《まわり》の一同、ここぞとばかりに犇々《ひしひし》と取り巻いてくる。
三次、素早く伊助の言葉を折った。
「まあま、仏が第一だってことよ。地面《じべた》に放っぽりかしちゃあおけめえ。あっしが通りかかって飛ぶ所を見て、死骸だけでも揚げたというのも、これも何かの因縁だ。なあ伊助どん、話あ自宅《うち》へ帰《けえ》ってゆっくり聞くとしょう。とにかく、仇敵討《かたきう》ちってのは穏和《おだやか》じゃあねえ。次第《しでえ》によっちゃ腕貸《うでかし》しねえもんでもねえから、さあ行くべえ。死んでも女房だ、ささ、伊助どん、お前お藤さんを抱いてな――おうっ、こいつら、見世物じゃあねえんだ! さあ、退いた、どいた。」
二人で死体を運んで、三次と伊助、材木町通りのなかほどにある伊助の店江戸あられ瓦屋という煎餅屋へ帰って行った時は、冬の夜の丑満《うしみつ》、大川端の闇黒《やみ》に、木枯《こがらし》が吹き荒れていた。
二
蔵前旅籠町《くらまえはたごちょう》を西福寺門前へ抜けようとする角《かど》に、万髪飾《よろずかみかざ》り商売《あきない》で亀安という老舗《しにせ》があった。
十八日の四谷の祭りには、女房お藤が親類に招かれて遊びに行くことになっていたので、以前《まえ》まえからの約束もあり、今朝伊助は、貧しい中からいくらかの鳥目をお藤に持たせて、根掛けの板子縮緬《いたこちりめん》を買いに亀安へ遣《や》ったのだった。
女房とはいえまだ子供子供したお藤。かねて欲しがっていた物が買って貰えることになったので、朝早くからひとりで噪気《はしゃ》いで、煎餅の仕上げが済むと同時に、夕暮れ近くいそいそ[#「いそいそ」に傍点]として自宅《いえ》を出て行ったが、それが小半時も経ったかと思うころ、蒼白《まっさお》な顔に歯を喰い縛って裏口から帰って来て、わっ[#「わっ」に傍点]とばかりに声を揚げて台所の板の間に泣き伏してしまった。
吃驚《びっくり》した伊助、飛んで行ってお藤を抱き起し、いろいろと問い糺《ただ》してみたものの、ただ、
「口惜《くや》しい、くやしいッ!」
と泣くだけで、お藤は何とも答えなかった。
女房思いで気の弱い伊助が、途方に暮れておろおろ[#「おろおろ」に傍点]しているところへ、間もなく、小間物屋亀安の番頭が、頭から湯気を立てて、豪《えら》い権幕《けんまく》で乗り込んで来た。
此家《こちら》のお内儀かは存じませんが、それ、そこにいる御新造――とお藤を指して――が、私どもの店で、二十五両もする平珊瑚の細工物を万引《ちょろま》かしたから、今この場で、品物を返すか、それとも耳を揃えて代金を払ってくれればよし、さもなければ、出るところへ出て話を付けて貰おう、それまではこのとおり、店頭へ据わり込んで動かないという言分。煎餅どころじゃない。瓦屋の一家――といっても夫婦二人だが――とんでもない騒動になった。
正直一徹の伊助が、発狂するほど驚いたことは言うまでもない。お藤は、それでも、泣きながら首を振って、あくまでも身に覚えのないことを主張《いいは》ったが、番頭はいよいよ権《かさ》にかかる一方、お藤はよよ[#「よよ」に傍点]と哭き崩れる。その間に立って気も顛倒《てんとう》した伊助、この時思い付いたのが、証拠の有無という重大な一事であった。
「ねえ親分。」と伊助は三次のほうへ膝を進めて、「しが[#「しが」に傍点]ない渡世こそしているものの、他人《ひと》に背後指《うしろゆび》差されたことのないあっし[#「あっし」に傍点]、夫の口から言うのも異なものだが、彼女《あれ》とても同じこと、あいつにかぎってそんな大それたことをするはずは毛頭ありません。こりゃあ何かの間違えだ。いくら先様が大分限《だいぶげん》でもみすみす濡衣《ぬれぎぬ》を被《き》せられて泣寝入り――じゃあない、突出されだ、その突出されをされるわきゃあない、とこうあっし[#「あっし」に傍点]は思いましたから――。」
ぽん[#「ぽん」に傍点]と吐月峯《はいふき》を叩いた三次、
「だが伊助どん、待ちねえよ。ただの難癖言掛《なんくせいいがか》りじゃすまねえことを、そうやって担ぎ込んで来るからにゃあ、先方《むこう》にだってしかとした証拠ってものがあろうはず。」
「へえ。あっしもそこを突っ込みやしたが。」
「何ですかえ、その亀安の番頭は、お藤さんが珊瑚《さ
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