を片っ方持込んで見てくれがしにそこらに抛っておいたりするような、そんな間抜けたことはよもやすまい。この男にあの袈裟がけ斬りの疑いを懸けたことが三次は自分ながらおかしくなった。が、何はともあれ念のためと、玳瑁《たいまい》の櫛を出して問い詰めると、辰はすぐさま頭を掻いて、じつは誠に申訳ないが、年の暮れのある晩|稼業《しょうばい》の帰途《かえり》に、筋交《すじかい》御門の青山|下野守《しもつけのかみ》様の邸横で拾ったのだが、そのまま着服していて先日《このあいだ》父親に内証でお菊に与《や》ったものだと言った。嘘をついているものとも見えないので三次はすっかりあて外れの形だったが、それでも一応昨夜の動きを訊いてみると、いつものとおり饂飩の屋台車を押して歩いて明方に帰ったと答えた。
「帰った時に戸口の血やこの下駄に気がつかなかったかえ。」
「暗え中を手探りで上ってすぐと床に潜込みやしたから、何にも気が付きませんでした、へえ。」
三次は家のなかを見渡した。なるほど男鰥夫《おとこやもめ》の住居らしく散らかってはいたが、さして困っている生計《くらし》とも思われない。女房《にょうぼ》を失くした淋しさから櫛をやったりしてお菊の歓心を買うに努めていたものとみえる。小道具といい身のまわりといい饂飩屋|風情《ふぜい》にしてはちょっと小ざっぱりしすぎているような気がしないでもなかった。
「のう辰さん。」三次が言った。「饂飩もなかなか上金《あがり》が大《でっ》けえもんと見えますのう。」
「へ? へえ、おかげさまで、へえ。」
「車はどこにありますい。」
「仕込問屋に預けてありやす。」
「その問屋ってなあどこですい。」
「その問屋は――。」
「うんその問屋は?」
「へえ、蔵前の――。」
「うん。蔵前の何屋何兵衛だ。」
とこう突っ込まれて、辰はぐっ[#「ぐっ」に傍点]と詰ってしまった。それを見ると、三次は脅し半分に腕を伸ばして辰の肩口を掴んだのだが、掴まれた辰よりもかえって掴んだ三次のほうが吃驚《びっくり》した。蜻蛉の辰の肩は、板のように固く、瘤のように胼胝《たこ》ができていたのである。
「おうっ、辰っ。」三次の調子ががらり[#「がらり」に傍点]と変ったのはこの時だった。「お前なんだな、駕籠《かご》を担《かつ》ぐな。」
辰は両手を突いて黙っていた。
「辻か、いやさ、辻駕籠かよ。」
辰は返事をしない。三次はたたみかけた。
「相棒は誰だ。出場はどこだ。」
辰は無言だった。三次はかっ[#「かっ」に傍点]として、この野郎っ、直《ちょく》に申上げねえかっ、と呶鳴ろうとしたが、何思ったかにこり[#「にこり」に傍点]と笑って、
「辰さんや、何をしても商売だ。のう、駕籠かきだとて恥じる節はねえわさ。まあま、男は身の動くうちが花だってことよ。精々稼ぎなせえ。」
と言ったなり、頭を下げている辰公を残してぶらり[#「ぶらり」に傍点]とその家を出たのだった。
「ふうん、こりゃあちょっと大物だぞ――。」
生酔いのように道路《みち》の真中を一文字に、見れども見えず聞けども聞かざるごとく、思案にわれを忘れて花川戸《はなかわど》の自宅に帰り着いた早耳三次は、呆れる女房を叱りとばして昼の内から酒にして、炬燵《こたつ》に横になるが早いか、そのまま馬のように高鼾をかいて睡ってしまった。
四
音も月も凍《い》てついた深夜の衢《まち》、湯島切通しの坂を掛声もなく上って行く四手駕籠一梃、見えがくれに後を慕って黒い影が尾《つ》けていた。
蜻蛉の辰が饂飩屋なぞと嘘を言って人にかくれて駕籠を担いでいる夜の稼ぎを怪しいと見た早耳三次が、半日ぐっすり[#「ぐっすり」に傍点]寝込んで気を養い、暮るに早い冬の陽が上野の山に落ちたころ、腹掛法被《はらがけはっぴ》に※[#「ころもへん+昆」、172−下−14]襠《ぱっち》という鳶《とび》まがいの忍び装束で茶屋町近くに張込んでいるとこれも身軽に扮《つく》った蜻蛉の辰が人目を憚るように出て来て、東仲町を突き当った誓願寺の裏へ抜けた。あの辺いったいは東光院《とうこういん》称往院《しょうおういん》天岳院《てんがくいん》、左右が海全寺に日林寺、そのまたうしろは幸竜寺《こうりゅうじ》万祷寺《ばんとうじ》知光院《ちこういん》などとやたらに寺が多かった。辰が天岳院前の樹下闇《このしたやみ》に立停まると、そこに男が一人駕籠を下ろして待っていた。三次が遠くから透かし見たところでは、痩形《やせがた》の、身長《せい》の高い若い駕籠屋であった。二人は別に挨拶もせずに、そのまま駕籠を上げて安部川町の方へ辻待に出向いて行った。空駕籠の揺れぐあいから後棒の辰はもちろん、先棒の男もまだ腰ができていないのを、三次は背後《うしろ》から見ながら随いて行った。お書院組《しょいんぐみ》の
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