籠を停めて前棒が闇黒《やみ》に隠れることがあったが、酒代《さかて》でも強請《ねだ》りに客を追うのだろうくらいに考えて、辰は別に気にもとめなかったというが、迂濶《うかつ》といえばこれ以上迂濶な話はないけれど、蜻蛉の辰という人物にはありそうなことだった。が、自分でもいくらか臭いにおいを嗅いだかして、饂飩《うどん》を売りに出るなどと辰は世間体を誤魔化していたのである。
早耳三次が白眼《にら》んだとおり、甚右衛門店のお菊殺しは大之進の仕業《しわざ》であった。十四日夜の四つ時、例によって二人が悪業の駕籠を肩に天王町の通りを材木町へ差しかかると、向側から来た人影が茶屋町のとある路地へ切れた。それを見ると久方ぶりに殺心むらむら[#「むらむら」に傍点]と燃え立った大之進は、駕籠を捨てて追い縋り井戸端で二つに斬って水へ沈めた。その間、すこし離れたところに駕籠を守って辰が放心《ぼんやり》待っていたというから、こいつ[#「こいつ」に傍点]の眼玉は大きいだけでよくよく役に立たなかったものとみえる。ふ[#「ふ」に傍点]とした悪戯気《いたずらげ》から辰の家とは知らずにお菊の下駄を抛り込んだり、障子に血の痕を付けて置いたりしたのが、大之進の運の尽きであった。玳瑁の櫛も三次の推量どおり、大之進が辰に与えたものであった。
お白洲《しらす》に出ても大之進は口を緘《とざ》して語らなかった。
「この者をお咎めあるな。不浄人に力を藉して拙者を絡めたくらい、下郎は何事も存じ申さぬ。あくまでも伊丹大之進ただ一人の所存でござる。」
何を訊かれてもかく言うだけだった。早耳三次は家主甚右衛門ならびに茶屋町町年寄一統とともに、改めて辰のために何分のお慈悲を願い出たという。
底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
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