しをいいことに、おれは、女一匹にこだわって――。(急に朗かに)あははははは、何を言ってるんだ。おれの女房は戦争だ。おれは戦争と結婚しているんだ。この成吉思汗《ジンギスカン》の恋人は、軍馬だ、弓矢だ、此剣《こいつ》だ! 敵の血だ! 砂漠の風だあ――! あははははは。
哲別《ジェベ》 殿!
成吉思汗《ジンギスカン》 相手にして面白いのは、乃蛮《ナイマン》の太陽汗《タヤンカン》だ。合撒児《カッサル》! あれを見ろあれを! 抗愛山脈の上で、月が招いているじゃあねえか。哲別《ジェベ》、忽必来《クビライ》、進軍だ、進軍だ! ああ愉快愉快! 者勒瑪《ジェルメ》、馬を引いて来いっ!
[#ここから3字下げ]
一同はいろめき立って出陣の支度にかかる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
汪克児《オングル》 (成吉思汗《ジンギスカン》の口真似)おれの女房は、この背中の瘤だ。おれは瘤と結婚しているんだ。この汪克児《オングル》の恋人は、瘤だ、踊りだ、踊りだ、瘤だ――あっはっはっは! (成吉思汗《ジンギスカン》の気を引き立てようと、滑稽に踊り廻る)
[#ここから3字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》は寂しそうに、ぼんやり立って考え込んでいる。小姓|巴剌帖木《パラテム》の捧げる兜を、無意識にかぶりながら、
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 巴剌帖木《パラテム》。
巴剌帖木《パラテム》 (前に片膝ついて)はっ。
成吉思汗《ジンギスカン》 お前は、十四だったな。
巴剌帖木《パラテム》 (不思議そうに)は?
成吉思汗《ジンギスカン》 (優しく)いや、年齢《とし》は十四だったなと言うんだ。
巴剌帖木《パラテム》 はい。
成吉思汗《ジンギスカン》 (夢みるように)恋の花は、まだまだ固い蕾《つぼみ》だな。だが、初恋の女ができたら、すぐおれに言うんだぞ。必ず一緒にしてやるからなあ。初恋に敗れると、生涯砂漠の風が身に沁《し》みるぞ。(突然、叱りつける)馬鹿っ! 貴様、何を聞いているんだ!
[#ここから3字下げ]
巴剌帖木《パラテム》はびっくりして後ろに退る。忽必来《クビライ》は銅鑼を持って下手に進み、まさに一打ち打とうとする時、
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
木華里《ムカリ》の声 (下手遠くより)しばらく、しばらくお待ちを――。
忽必来《クビライ》 おお、木華里《ムカリ》だ、木華里《ムカリ》が帰って来た――!
木華里《ムカリ》 (一同驚喜する中を駈け込んで来て)殿! およろこび下さい。ほどなくこれへ、合爾合《カルカ》様がお見えになります。
[#ここから3字下げ]
みな歓声を揚げる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 (嬉しさと悲しさが交錯して)そうか。合爾合《カルカ》が来る。そうか、合爾合《カルカ》が来るのか。(せせら笑って)手前《てめえ》が助かりたいばっかりに、大事な女房を捧げて命乞いする。ふふん、可哀そうに合爾合《カルカ》も、下らねえ男と一しょになったものだ。(哄笑)おい、皆聞いたか。数年越しのおれの恋を叶えに、いま合爾合《カルカ》が独りでここへやって来るそうだ。進発は見合せだ。どうでえ! 喧嘩に強い奴あ恋にも強いぞ。長の思いの霽《は》れる夕べだ。哲別《ジェベ》、速不台《スブタイ》、酒宴《さかもり》の支度をしろ。花嫁花婿のために、祝言《しゅうげん》の席を設けろ、あっはっはっは。
[#ここから3字下げ]
一同は右往左往して準備にかかる。篝火《かがりび》は一度に燃え盛る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
汪克児《オングル》 (成吉思汗《ジンギスカン》の前に進んで、妙な手つきをして月を仰ぐ)曇り、後晴れ。ああ、好い月じゃなあ。(自分へ)これ、外道、口が軽いぞ。(おのが口を抓《つね》って、蜻蛉返《とんぼがえ》りを打つ)
成吉思汗《ジンギスカン》 (独り言のように)長年想いを懸《か》けた女が来る晩に、軍《いくさ》などと、そ、そんな殺風景なことができるか。こんな、鎗だの、楯だの、(とそこらに組み合わせて立ててある武器、馬具などを蹴散らす)今夜あ、こんな物あ眼触《めざわ》りだ。婚礼の席には邪魔ものだ。早く片づけてしまえ。
[#ここから3字下げ]
皆浮きうきしながら、焚火のまわりに獣皮を敷き、酒宴《さかもり》の座を設ける。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 (焦いらして)兵卒一同にも、今宵は振舞い酒だ。たんまり飲ましてやれ。
[#ここから3字下げ]
消魂《けたたま》しい野犬の吠え声
前へ 次へ
全24ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング