速不台《スブタイ》、貴公行け。
速不台《スブタイ》 獅子の檻へならはいって行くが、殿の御不興《ごふきょう》だけは――それに、おれは、先刻から、急に腹が痛み出して、ううむ、これはやりきれん。あ痛たたた、忽必来《クビライ》君、頼む。君行って、お起し申してくれ。
忽必来《クビライ》 冗談でしょう。吾輩はにわかに頭痛がして――。
合撒児《カッサル》 頭痛がしたって歩けるだろう。
忽必来《クビライ》 いや、その、実は足が痛いので――おお痛い。こいつはたまらん。哲別《ジェベ》どの、これはどう考えても年寄り役だ。長老、一つ――。
哲別《ジェベ》 それが、その、なんだ、私の行きたいのは山々だが、年齢《とし》のせいか鳥眼《とりめ》の気味でな、夜になると何も見えん――。
合撒児《カッサル》 はっはっは、大切な乃蛮《ナイマン》征伐を前にして、軍の大幹部がみんな急病とは大変だな。よし、じゃ、みんなではいって行こう。
汪克児《オングル》 (しゃしゃり出て)お待ちを。しばらくお待ちを。その役目は、どうぞ拙者めにお任せ下さい。たとえ成吉思汗《ジンギスカン》様が辛子《からし》をお舐めになった時でも、かく言うそれがしさえお傍にいれば、ああ辛いとおっしゃるかわりに、わっはっはと笑わせてお眼にかける。えへん、大王さま第一のお気に入りの汪克児《オングル》様々じゃ。万事、な、万事この胸に――者ども騒ぐな。おほん! (そっくり返って天幕へはいってく)
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一同は天幕の入口に集まり、心配そうに聞き耳を立てる。
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成吉思汗《ジンギスカン》の声 (天幕の中から、睡そうに)ううう、うるさい芋虫だな。なに、木華里《ムカリ》がまだ帰らないから、もう総攻撃開始だと? (叱咤する)ええい、やかましい! 勝手にしろ!
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とたんに、天幕のなかで、主人の怒りに刺激された物凄い虎の咆哮が、一声大きく聞える。同時に、天幕の入口から汪克児《オングル》が、俵を投げ出すように、ごろごろと勢いよく転げ出して来る。それを追っかけて、巨大な猛虎が一頭、唸りながら躍り出る。続いて成吉思汗《ジンギスカン》が、少年のような快活さで、出入口の垂れをはぐって現れる。何の屈託もなさそう、にこにこして大股に駈け出て来る。小姓|巴剌帖木《パラテム》、朱の袱紗の上に金の兜を捧持して、急いで後に従う。一同、威儀を正して最敬礼。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (愉快そうに)太陽汗《タヤンカン》! (虎を鎮める)
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武将達の間を昂奮してのそのそ[#「のそのそ」に傍点]歩き廻っていた虎は、猫のごとく従順に、成吉思汗《ジンギスカン》の側へ帰ってぴたりと坐る。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (その虎の頭を撫でて、大笑する)ははははは、お前たちに話したかな。おれは、此虎《こいつ》に、太陽汗《タヤンカン》という名を命《つ》けたよ。太陽汗《タヤンカン》というのは、これからおれたちが攻めて行こうとしている、あの乃蛮《ナイマン》国王の名さ。虎のような乃蛮《ナイマン》王|太陽汗《タヤンカン》も、こら、見ろ、この成吉思汗《ジンギスカン》にかかっては、もうすっかり奴隷になって傍に仕えているというわけさ。はっはっは、愉快じゃねえか。なあおい!
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皆笑い崩れる。
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汪克児《オングル》 (虎へ)太陽汗《タヤンカン》さま、あなた様は私を見るとすぐ、眼の仇敵《かたき》にして跳びかかってくる。この(と自分の背中を指して)瘤を進上しやすから、それで一つ仲直りを、へへへへへへへへへ。
成吉思汗《ジンギスカン》 (伝法に)そんな物を貰っても食えねえからいらねえや、なあ太陽汗《タヤンカン》。(大きな欠伸《あくび》をする)木華里《ムカリ》がどうしたと?
忽必来《クビライ》 まだ木華里《ムカリ》が帰ってまいりませぬ。
成吉思汗《ジンギスカン》 (淋しさを隠して)心配するな。あの木華里《ムカリ》の身体に刃を当てることのできる奴が、札荅蘭《ジャダラン》の城中に一人でもいるなら、おれたちあこんな面白くもねえ戦争をしなくってもよかったんだ。
哲別《ジェベ》 (思いきって)殿、降伏の条件は拒絶したものと見えます。合爾合《カルカ》姫はお見えになりません。
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皆心苦しそうに眼を外らす。
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成吉思汗《ジンギスカン》 (ふっと沈鬱に)お前たちの心尽
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