くるのだ。
「旦那様」お高が、あらためて呼びかけた。「わたくしは、ここに三両持っておりますでございます。どうぞこれを、磯五のほうへおまわしくださいまして、あとは、また待ってくれますように、どうぞあなたさまから、磯五のほうへ、おかけあい願えませんでございましょうか」
「馬鹿な!」
 若松屋は、唾《つば》を吐《は》くようにいった。
「だめでございましょうか」
「馬鹿な!」若松屋は、笑った。「そんなことをせんでも、そう事がわかれば、その二百五十両は、わたしが払ってやる」
 お高は、紅絹《もみ》のように赧《あか》い顔になった。
「いいえ、いいえ、めっそうもない! そんなことをしていただいては、冥加《みょうが》につきます。ほんとに、それだけは、御辞退申し上げます」
「なぜだ」
「なぜと申して、そんなことをしていただこうと思って、お話し申したのではございません」
「それは、わかっている。だから、貸すのだ。暫時《ざんじ》、貸すのだ」
 若松屋惣七は、いつのまにか、ほろ苦くほほえんでいた。お高は、あわてて、二度も三度もつづけさまにおじぎをして、やたらに手を振った。
「いえ、もう、それだけは――そのお志だけで、ほんとに、ありがとうございますが、でも、お立て替えくださることだけは、失礼でございますが、お断わり申し上げます」
「ふうむ。それはお高、あまりに他人行儀というものではないか」
「――」
「ははあ、読めたぞ。お前はまだ、そのすてられた男のことを思っているのであろう」
「――」
「これ、お高、そちは、その男のことを思いながら、わたしと、こういうことになったのか」
 若松屋惣七は、くちびるを白くしている。お高の顔にも、血の気がないのだ。

      五

 いきなり、若松屋惣七は、天井へ向かって笑い声をほうり上げた。いつまでも笑っている。いつまでたっても、馬がいななくように笑っているので、お高は、気味がわるくなったが、それでも、ほっとして、鬢《びん》のほつれ毛を指でなで上げた。
「もし、旦那様。わたくしが払いできずに、磯五が訴えましたならば、わたくしは御牢屋《おろうや》へはいらなければならないのでございましょうか。あの、ほかの方《かた》へ、貸金のさいそくを御代筆いたしますごとに、わたくしは、心配やら情けないやらで、死ぬような思いを致しましてございます。
 でも、こちら様から督促状がいきますと、たいていの方が、お金を届けて参ります。わたくしは、しじゅう、もしわたくしにそんな日がきたら、どうしようかと思って、夜もおちおち、眠れないようなことがございましたが、とうとう、その時がまいったのでございます――」
 若松屋惣七は、急に、お高のほうへ、半身をつき出した。
「どんな男だな。その良人というのは。何か近ごろ、たよりでもあったかな」
「いいえ。家出しましてから、一度のたよりもございませぬ」
「だいぶ、質《たち》のよくないやつらしいな」
「あの、酒がはいりますと、まるで別人のようになるのでございます」
「のんべえか。だが、その男も、お前を大切にしたことがあるであろうが――」
「はい。それは、ひところは――でも、べつにわたくしを好きだったのではございません。わたくしのもっていた二千両が目当てだったのでございます」
「きやつが生きておるというのは、確かか」
「たしかに生きているという気が、いたしますのでございます。もし死ねば、何かわたくしの耳にはいるはずでございますから――」
「てへっ! 貞女だなあ、お前は、貞女だよ。見上げたものだよ」
 若松屋は、苦々しげに、この皮肉を吐き出した。お高は、はっとして下を向いた。耳のつけ根まで燃えた。
「わたしは、そのお前の良人が、死んでいてくれればいいと思う」
 若松屋が、しずかにいっていた。お高は、もう一度はっ[#「はっ」に傍点]として、こんどは、顔を上げた。黙って、惣七を見た。惣七の、ふだんは森林にかこまれた湖のような顔に、いまは、かつて見たことのない情炎がぼうぼう[#「ぼうぼう」に傍点]と揺れうごいていた。それが、惣七の顔を、真昼の陽光のなかに、不思議と、影の多いものに見せていた。
 冷《れい》れいたる茶室に、男の感情が大きくひろがったのだ。死んでいてくれればいい、という露骨《むきだし》なことばのかげには、もし生きていてあうことがあれば、殺すのだという意味も、くんでくめないことはないのだ。お高は、若松屋惣七の冷火のような激情に胸をつかれて、それに、肉体的な苦痛をさえ感じた。それは、自分でも意外な、快感でもあった。
 若松屋惣七の声は、水銀を飲んだように、ひしゃげてきた。
「死んでいてくれればいい」繰りかえした。「なぜこんな容易ならぬことをいうのか、お前にはわかっているであろう。わたしは、お前を思っているのだ。わたしという人間は、冷たい人間だが、お前を熱く想《おも》っておるのだ。あすにも、いや、きょうにも、あらためて、女房になってくれというつもりでおった。もそっと、こっちへ寄れ」
 が、お高は、肩をすぼめて、かえって身をひくようにした。真《ま》っ蒼《さお》な顔が、いまにも気絶しそうにそって、うしろへ手を突いた。
「何だ。いやなのか。そんなに、わたしが恐ろしいのか。よし。そんなにいやがるものを、いまどうしようともいいはせぬ。しかしお高、その茶坊主はお前の良人かもしれぬが、わたしとお前のあいだも、妻と良人も同然であることを、忘れぬようにな。ははははは、つまりお前には、良人が二人あるのだ」
「どうぞ、そんな、あさましいことをおっしゃらずに――」
「あさましい? こりゃ面白い。何があさましいのだ。男が、好きな女をくどくが、あさましいか」
「でも、わたくしには、いま申し上げましたとおり、良人があるのでございます。たとえ家出して、行方知れずになっておりましても――」
「ふん、そんなら、どういう気で、わたしとこういうことになったのだ。一時の気の迷いか」
「――」
「それみい。答えられまいが。お高――」惣七の声は、意地にふるえた。「わたしは、お前は離しはせぬぞ。この、見えぬ眼で、どこまでも追いかけるのだ」
 おおっ! というように、お高が、おめいたようだった。去った良人への気がねに、全心身をあげて惣七に打ちこみ得なかったお高だ。惣七に対する愛恋に、自制に自制を加えてきていたのだ。
 その垣《かき》も、惣七の朴訥《ぼくとつ》な迫力のまえには、一たまりもなかった。そこには、ふたりの感情のほか、何もなかった。泣き叫ぶのと同時に、お高は、腰を上げていた。膝で畳を走って、つぎの秒間には、総身の重みを、惣七のふところに投げあたえていた。
 こうして嗚咽《おえつ》とともに飛びこんで来たお高を、惣七は、父のごとく、ゆったりと受け取った。
 お高は、しがみついて、惣七の襟《えり》に、顔をうずめた。おおっ、おおっと聞こえるお高の泣き声にもつれて惣七の声がしていた。
「泣け、泣け。泣いて、泣いて、泣きくたびれて、眠るのだ。なあ、何も心配することはないぞ。泣きくたびれて、ねむくなるまで、泣くのだ」
 お高を抱いている惣七の手が、軽く、お高の背なかをたたきつづけた。そして、ゆっくり、からだを左右に揺すぶっていた。まっすぐに上げた惣七の顔が、白く、引き締まって見えた。

      六

 お高の声が、惣七のふところから、揺れ上がった。
「この借銭だけは、わたくしひとりの手で、返させていただきとうございます」
「強情な。しかし、それも、面白かろう」
「はい。何とかして、わたくしひとりの手で返金して、さっぱりいたしとうございます」
「うむ。やってみるがよかろう。やってみなさい。わたしも、先方へ口添えをしておきます。その磯五の店の暖簾ぐるみ買ったという男、つまり新しい磯五だが、わたしは、その男を、すこしも知らないのだ。が、文通はあるのだから、いずれ、よく伝えておきましょう。なに、案ずることはない。ただ、わたしにその金を出させてさえくれれば、なんのいざこざもないのだがな」
「いえ。そればっかりは――それでは、あんまりもったいのうございます」
「では、その茶坊主のことなりと、いますこし聞かせてくれぬかな」
「はい」
「さしつかえあるまい」
「なんのさしつかえが――それは、それは、見得坊な、とんと締まりのない男でございました。それに、鬼のように情け知らずで――でも、よく頭のまわる、はし[#「はし」に傍点]っこい男でございました。あんなのを、山師、とでもいうのでございましょうか。しじゅう、何かしら、大きな商売などをもくろんでいたりなどしまして、それをまた、不思議に、人さまが真に受けるのでございます。でも、心のしっかりしていない、弱い人でございました」
「家を出て、どこへ行ったのかな」
「はい、何でも風のたよりでは、京阪《かみがた》のほうへ、もうけ話をさがしにまいったとかいうことでございます」
「それは、きやつが、奥坊主の組頭《くみがしら》をやめてからのことだな」
「さようでございます。やめまして、小普請お坊主として、からだが自由《まま》になるようになってから、まもなくのことでございました。わたくしがいやで、いやで、顔を見るのもいやじゃと、しじゅう口癖のように申しておりました」
「お前を、か。何と男|冥利《みょうり》に尽きたやつじゃな」
「あら、でも、人はみな好きずきでございますから、そんなこと、とやこう申す筋あいではございません。それからわたくし、高音という名を高とあらためまして――」
「もうよい、よい。あとは聞かんでも、わかっておる。だが、しかし、二千両持ち逃げしたとは、そりゃ、はじめからたくらんだ仕事に相違あるまい」
「どうも、そうらしいのでございます。でも、わたくしは、お金のことは、もう何とも思っておりませんでございます。あの人も、心から悪い人ではなし、ふっと魔がさしたのであろうと、あきらめておりますのでございます」
「何の、心からの悪ものではないものが、そんなことをしようぞ。これ、お前は、このわたしの膝の上で、きやつの弁疏《いいわけ》をする気か」
「いいえ。決してそんな――」
「ええっ、聞きとうないわ。こりゃ、もしその茶坊主が死んでおったら、お前はわたしに、身もこころもくれることであろうな」
「それはもう、たとえあの人が生きておりましても――と申し上げたいのはやまやまでございますが、何だか、気になりまして――」
「うむ――」
 若松屋惣七の顔を、けわしい剣気が、刷《は》いて過ぎた。これは、お高が夢にも知らない、流山《りゅうざん》一刀流の[#「流山《りゅうざん》一刀流の」はママ]剣士としての惣七である。一抹《いちまつ》殺闘の気が、男の胸から、お高にも伝わったのであろう。お高は、ひょいと、あどけない顔をふり上げて、惣七を見た。
「まあ、こわ! 何を考えていらっしゃいますの?」
「――」
 お高は、甘えて、惣七を揺すぶった。
「よう、旦那さま、何をそんなに考えていらっしゃる――あ! わかった」
 お高は、顔いろをかえて、惣七をふりほどこうとした。惣七は、もう笑顔に返っていた。
「わかったか。わたしはいま、その男にあったときのことを思っておったのだ」
 久しく、思い出したこともない落葉返しの構え、その落ち葉のように、かっと散る熱い血しぶき――惣七は、とっさに剣を想ったのだ。忘れていた刃《やいば》のにおいが、つうんと惣七の嗅覚《きゅうかく》をついた。
 この、はじめて見る惣七に、ぎょっー、としたらしく、お高が、惣七の抱擁《ほうよう》からのがれようと、もがいている時、廊下の跫音《あしおと》が近づいて来た。
 惣七も、お高を離した。同時に、縁側に、男衆の佐吉が、うずくまった。若松屋惣七は、不興げな顔を向けた。
「客か」
「へえ。日本橋式部小路《にほんばししきぶこうじ》の太物《ふともの》商、磯屋五兵衛《いそやごへえ》てえお人が、お見えでごぜえます」
「なに、磯五が参った」
 ちらと、お高と惣七の眼が、合った。お高は、恐ろしい借金のことを思って、眼に見えてふるえだ
前へ 次へ
全56ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング