産がきてから、若松屋惣七が急によそよそしくしだして、とてもいっしょになる気もちなどはないらしく見えたからだった。財産のあるお高と夫婦になって、財産があるから夫婦になったのだと思われたくないという、若松屋惣七らしい意地だった。磯五という邪魔《じゃま》がなくなったいま、お高と若松屋惣七のあいだを邪魔するものはこうしてお高の財産であった。
お高は、誰の顔も見ないように、ほとんど一部屋に閉じこもって日を過ごした。心もちの苦しみが、からだの苦しみにまでなってきていた。その刺すような苦しみが、お高をはっきりと自意識にもどして、彼女は生き返ったような気がすることがあった。じぶんは今まで死んでいたのだと思うことがあった。
じっさい、お高は、この最近の磯五との交渉や、母のおゆうの遺産受け継ぎの問題などで、多くのいざこざを[#「いざこざを」は底本では「いざくざを」]重荷のように負わされていたのから解放されて、もとのさわやかなお高にさめつつあった。よみがえりつつあった。
恋だの愛だのという心臓はふさがって、いのちは糸のようにほそっても、大きな財産さえあれば、幸福である。それが何よりの慰めになるという人が、世の中にはすくなくないものだが、お高の場合は、そうでなかった。反対だった。
さびしい、しかし、生きいきした光を持ち出してきた眼を壁にすえて、室外《そと》に進む夏のけはいを感じてじっと味わいながら、お高は、口をきくのもおっくうで、一日中ただすわっていることが多かった。肩で呼吸《いき》をして、苦しそうに、額が汗ばんでいることが多かった。
「もうじき身ふたつにおなりになるのさ」
膳を運んでくる国平が、供部屋へ帰って、佐吉と滝蔵にささやいたりした。
若松屋惣七と龍造寺主計が帰って来ると、お高は、長いことためらっていて、その、惣七の帳場になっている奥の茶室へはいって行かなかった。龍造寺主計が、あの初めて来たときのように、庭を隔てた別棟《べつむね》に落ちつくと、お高は、思い切って若松屋惣七の部屋へ出かけて行った。
若松屋惣七は、着がえをすまして、よく見えない眼を庭へ向けているところだった。それは、お高がよく見慣れた座像であった。お高は、泪《なみだ》が流れるのにまかせてそのまま若松屋惣七のまえへ行ってべったりすわった。
若松屋惣七は、風のようなお高のにおいを感じて、その来る方向へからだを転じてすわり直した。お高を受けとめようとするように両手をひろげたが、お高は、すこし離れたところにくずれてしまって、その手の中へはころげ込まなかった。
「いま滝蔵から聞いた。ここに帰って来ておったのだそうだな」若松屋惣七は、茶碗《ちゃわん》の糸尻《いとじり》をすり合わせるような、いつになく上ずった声だ。「知らなかったぞ。何しに帰って来たのだ」
「旦那様は、わたくしになど、もうお会いくださるお気もないのでございましょうけれど――」
三
「そうでもない。会いたくないくらいなら、何もこういそいで掛川からもどって来ることはないのだ」
「では、おあいくだすっても、どういうことになさろうというお気は、ないのでございましょう。そうなのでございましょう」
「どういうことにするとは、どういうことだ。愚かな、わけのわからんことをいうものではない」
「具足屋のほうはいかがでございますか」
「芽を吹いたどころか、みごとな花が咲いて、やがて、たいした実がなろうぞ」
「龍造寺主計さまが、ごいっしょにお帰りになったようでございますねえ」
「うむ。用もないが、ま、久方ぶりに江戸見物というところである。あとでお眼にかかるがよい」
「――」
「からだのほうはどうか」
「はい」
「一空さんから来書があって、それで急にもどって来たのだが、磯五が焼死いたしたというではないか」
「はい。父の手妻小屋の火事で、おしんさんと、それからお美代とか申す女と、三人で焼け死にましてございます」
「天命じゃ。が、いささかさびしい気もするな」
「そのうえ、あの人が火をかけたことになりまして、南の大岡様のお計らいで、火つけあつかいでございます。地所、家作は申すに及ばず、蔵から店の品物まで、そっくりお取り上げになりまして、いっさい、おせい様へお下げになりますのだそうでございます。磯屋の店はつぶれましてございます。せいせいいたしました。それに、おせい様も、何やかやと磯五にとられましたものが皆手に返ることになりまして――」
「それは、何よりであった。ところで、磯五がそうなってみると、お前も自ままじゃの」
「――」
「自ままじゃの」
「はい」
「――」
「旦那様」
「――」
「なぜそこまでおっしゃって、そのままお黙りになっておしまいになるのでございます。わたくしは、何をそんな、お気にさわるようなことをいたしましたろう?
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