ですしねえ。
 それに、わたしは、その龍造寺何とか様とおっしゃるお侍が、掛川においでになるのが、心配で、何かあぶないことになりそうで、それで一つは、お高さまを掛川へ出してあげたくないのでございますよ。男の方は、どんなお友だちでも、女子《おなご》のこととなりますと、別でございますからねえ」
「さようでございますか」
「そうでございますとも。お高さまが若松屋さんを慕っておいでなさるんでしたら、いっそう掛川行きはおよしなさいましよ」
 お高は、急にわっと泣き叫んで、おせい様の膝に突っ伏した。おせい様も、おろおろ声なのだ。おせい様は、泣いているお高を慰めていいか、そして、どうして慰むべきであろうかと考えているうちに、じぶんでも泣けてくるのだ。
「何も泣くことはありませんよ。世の中は、うつろなようでうつろではございませんよ。わたしは、お高さんが大好きでございますからねえ。あなたには、わたくしのような小母《おば》さんがついていますと、ようございますよ。わたしはご存じのとおりの馬鹿でございますけれど、理解《わか》ることだけはわかるつもりでございますよ。人を思うことが、どんなに苦しいことか」
 おせい様の声は、すっかり涙にのまれて、聞こえたり、聞こえなかったりした。「人を思うことが、どんなに苦しいことか――この年齢《とし》になって、あの人というものが、わたしの前に立ったのでございますよ。
 お高さま、お高さまは、あの人のお内儀《かみ》でございますよねえ。一度はいいえ、ひところは、心《しん》からあの人を好きだとお思いになったこともございましょうよ。どんなに女をあやなして、好きにさせることの上手《じょうず》な人か、お高さまは、よくご存じでございますよねえ。
 あの人は、あの人は――あの人はああなって、お高さまもいま掛川へおたちになってしまえば、わたしは、一人ぽっちでございますよ。掛川へなぞいらしってはいけませんよ」
 おせい様とお高は、たがいにかき集めるように抱き合って、長いこと泣いた。二人の周囲から世の中が遠のいて、なみだとすすり泣きの声が、あるだけだった。
 おせい様が、さきに鼻をかみ出して、じぶんの膝に押しつけているお高の顔を、両手にはさんで押し上げるようにした。おせい様は、洗われたような顔を、恥ずかしそうに笑わせていた。
「泣くのはいけませんでございますよ。くたびれますよ」
 お高は、そのおせい様のことばがおかしくて、今度は急に、おなかをかかえて笑い出した。おせい様も、お高の手の甲を一打ちたたいて、陽気に笑い出していた。二人は、涙をふきながら長いこと笑いくずれていた。

      三

 日本橋式部小路の磯屋の奥ざしきで、磯五が、十七、八の女を膝にのせてたわむれていた。その女は、お美代といって、奥向きの仕事をする女中であった。お美代は、出入りの鳶《とび》の頭《かしら》の口ききで、草加《そうか》のほうから来ている女であったが、すっかり江戸の水に洗われて、灰《あく》ぬけしてきていた。膚の白い、ぽっちゃりした、眼の涼しい娘だった。
 はじめて来たとき、何であったか、何か菜をつむように台所から命じられて出て来て、中庭に迷いこんでまごまごしているところを磯五に見つかって叱られたことがあるので、磯五には、そのときから、印象に残っている女であった。
 中庭は陽がよく当たらないので、露がおりたように、草がしめっていた。お美代は、磯五に叱責《しっせき》されて、しおしおと台所口のほうへ帰って行ったが、着物を濡らすまいとして、裾を引き上げて歩いていた。ふくらはぎのほうまで見えて、すんなりと蝋《ろう》のように白い脚であった。
 その夜ふけに磯五は、お美代に名ざして茶を持って来させたが、その磯五の寝部屋から、お美代は、朝になるまで帰らなかった。そして、朝になって奥から下げられて来たお美代は、すぐ泣いたり、すぐ笑ったり、つまらないことで赧い顔をして、そわそわしたり、そうかと思うと、しじゅうぼんやりしているお美代になっていた。夜中に、寝巻きの肩をふるわせて、奥と下《しも》のあいだの廊下にしょんぼり立って泣いているところを、朋輩にみつかったりした。
 お美代は、いつのまにか磯五を恋することを教えられていたのだ。
 そのお美代を、磯五はいま膝にのせて、いろいろに膝をゆすぶって、笑っていた。
「そら! 船だぞ」
 磯五が、子供にいうようにいって、そして、抱いている子供にするように、膝を大きく揺すると、お美代は昼日中主人とふざけていることを忘れて、鈴がころがるようなけたたましい声をたてて笑った。磯五はびっくりして、膝をゆすぶるのをよした。
「いけねえよ。美《み》い坊は声が大きいから、はらはらするのだ」
 お美代は笑いを押しもどすように、口に袂を持って行ったが、膝をおりようと
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