保の奥様という人を加えて、片瀬の龍口寺へお詣りして、ついでに江の島を見物するはずだったけれど、待っていても、大久保の奥様の病気がよくならないし、そこへ紙魚亭主人が出府してきたので、急に三人で、雑司ヶ谷のおせい様の家《うち》にいるお高を訪れることになったのだ。
 陽ざかりの庭に、松の影が人かげのように見えていた。芝が、南蛮の敷き物のように青く、そこここに置いてある石は、かわいて白かった。座敷の縁に、庭から来て腰かけて、歌子は、そばに立っている紙魚亭主人と話していた。歌子は、いつもの簡粗な着物を着て、陽やけのした顔を仰向かせて笑っていた。紙魚亭は、松葉をくわえてしきりにかみながら、歌子を見おろしていた。
 歌子がいっていた。歌子は若松屋惣七のことをあに様と呼んでいた。
「あに様は、あのお高さんという人を想っているのでございます。でも、むりもございませんよねえ。お高さんはあんなにきれいな、気だてのいい人で、かわいそうな目にあいなすったのですものねえ。今でも、いっしょになっているようなものでしょうけれど、ほんとに家《うち》へ入れてあげたいと思いますよ」
 歌子は、もっと何かいいそうにして、口をつぐんだ。樹立ちの蔭から、若松屋惣七とお高が現われて、庭のむこうを歩いているのが見えて、こっちが黙りこんで静かにしていると、風のぐあいで二人の話し声が聞こえてきた。
「高、歩いておると疲れはせぬかな」
「いいえ、ちっとも、疲れませんでございますよ」
 歌子と紙魚亭主人は、ちらと顔を見合わせて笑った。そして、ふたりは、両方からすこしずつ近づきあって、また、聞くともなしに、向こうから風に乗って流れてくる若松屋惣七とお高の話に耳をやった。
「陽にやけぬよう、木の下をあるいてはどうじゃ」
「はい。でも、日向《ひなた》のほうがあたたこうございますから」
「からだのぐあいはどうだな」
「はい。大変よろしゅうございます」
「高、お前はもう若松屋の仕事へは帰らぬ。帰りとうない。というようなことを申しておるそうだが、ほんとうか」
「――」
「黙っておってはわからぬ、ほんとうに若松屋へ帰らぬつもりか」
「はい。わがままのようでございますが、そのほうが旦那様のためにもわたくしのためにもよろしいように思われますでございます」
「どうしてだ」
 とききながら、若松屋惣七は、加宮跡で磯五に斬りつけられたことや、そのとき磯五がいった、お高がおせい様の証文を持って来て、交換に、離縁状を取って行ったということやなどを確かめてみようかとも思ったが、それは、お高の気もちがもっとわかるまでいわないことにした。
 しかし、証文を破いている磯五を、お高が、磯五がじぶんにしたように打って、そこは、お高が自分の仕返しをしてくれた形になっているのが、若松屋惣七は、愉快だった。で、お高を見ている彼の顔に、微笑がひろがった。
 が、お高は磯五から縁切り状を取って、晴れてじぶんのところへ来られるからだになっているのに、そして、そうでなくても、どうしても自分のところへ来なければならない事情が、お高のからだにできているのに、なぜ今になってこんなことをいい出すのだろうと、すぐ暗い表情になった。
 若松屋惣七は、佐吉だったか滝蔵だったか、金剛寺の一空さまからふと聞いてきた、お高に家を継ぐ金がはいろうとしているという、夢のような話を思い出して、それが、若松屋惣七をにっこりさせた。
「お前は近くたいそうな金持ちになるという評判だが、それで、もう若松屋へ帰らぬ決心をしたというわけかな」
「いいえ、そんなことはございません。お金持ちなどと、考えてもいやでございます。それも、いろんなむずかしいことがございまして、証人がいるとか何だとか、くさくさすることばかりでございます。お金も、くるかこないか、当てにならないのでございますよ」
「では、どうするつもりなのだ」
「どうするつもりって、何も考えておりませんでございます」
「その金が手にはいれば、一生食うに困らんというわけだな」
「はい」
「なぜもっと詳しく話してくれんのだ」
 お高は、まだ決まりもしない財産のことを話すのがいやであった。気恥ずかしかった。話すのはいいが、財産がこなかった場合のことを考えると、うれしがっていてはずれたように思われるのが、たまらなかった。また、まだ手にしないうちから話しても、誰も信じてくれる人がないようにも思えた。彼女じしんまだぴったりと現実のものに考えられないことを、どうして人に、夢でないように伝えることができるであろうかとあやぶまれた。
 で、いっさい黙っていることにしたのだが、若松屋惣七にだけは、だいたい話しておきたいような気もしたけれど、しかし、同じ理由からやはり黙っていることにした。
「いったい、いつはっきりわかるのか」
 若松屋惣七が
前へ 次へ
全138ページ中107ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング