うしたのだろう? 頭痛でもして、自分の部屋にこもりきりなのか――ちょっと、そう思った。
 それにしては、することだけは、きちん[#「きちん」に傍点]としているのである。夕飯の給仕にも出た。この床も、取っていった。いつものとおり、行燈《あんどん》の燈芯《とうしん》を一本にしてこっちに向いているほうへ丹前《たんぜん》を掛けておくことも、忘れてないのだ。
 が、考えてみると、そのあいだずうっと無言だったようだ。気分でも、すぐれないのかもしれない。それとも、何か、気になることでもあるのか。そのときは、そう思っただけで、惣七も、べつに気にとめなかったのだが、どうもきのう以来、あのお高のようすがへんなのである。けさひとつ、顔が合ったらきいてやろう――若松屋は、そう思った。
 思いながら、彼は、苦笑した。小判魔、というのもへんなことばだが、そういってもいいほど、とにかく、今では、金のほかは何もなくなっている若松屋だ。その若松屋が、けさは、どういうものか、お高のことが気になってしようがないのだ。
 それは、盲目に近い彼にとって、女番頭といえば、大切な人間ではある、ことにお高は、女ではあるが、字も達者だ。それにこのごろは、金稼業《かねしょうばい》のこつ[#「こつ」に傍点]もなかなか呑みこんできている。ただ、手紙の代筆をするだけではないのだ。取り引きに関して、なにげなくはさむお高の意見に、ちょいちょい光るものを発見して、じつは若松屋も、内心おどろいているのだ。
 それに、いつからか若松屋に許して、女房もおなじになっているお高でもある。若松屋惣七が、このお高がゆうべから顔を見せないことを気にするのに、別に不思議はないのだが、彼は、珍しく、ほんとに何年ぶりかに、女というもののことをこうして、すこしでも切実に考えている自分に皮肉を感じて、いま苦笑をもらしたのだ。それは、霜の朝の池の氷のような、うすい、冷たい苦笑だった。
 八端《はったん》の寝巻きに、小帯を前にむすんだ惣七である。よく見えない眼をこすって、縁の障子をあけた。日光が、待ちかまえていたように、音をたてて飛びこむ。微風が、ねまきの裾《すそ》をなめた。雑草が、陽《ひ》に伏している。しんみりと太陽のにおいがする。今日も、冬らしくない日なのだ。
 縁ばたに、杉の手水《ちょうず》だらいと、房楊子《ふさようじ》と塩が出ていた。お高が置いて行ったのだろう。惣七は、ふうっと腹中にたまっていた夜気を吹き出して、かわりに、思い切り日光を吸い込んだ。それにしても、眼の不自由な自分が、いま朝の水を使おうとしているのに、お高が出て来ないというほうはない。惣七は、手を鳴らした。耳を傾けて、反響を待った。どこからも、何のこたえもない。お高は、いないらしいのだ。
 若松屋惣七は、舌打ちをした。そこらをなでるようにして、顔を洗った。口をゆすいだ。手さぐりで、廊下を進んだ。彼は、自家《うち》のなかでもこうなのだ。年とってからの眼の故障なので、感がわるいのである。
 若松屋惣七は、毎朝、洗顔《すすぎ》がすむとすぐ、彼の帳場である奥の茶室へ引っこんで、一日出て来ないのだ。食事もそこでするのだ。で、壁に手をはわせて、若松屋惣七は、そろりそろりと足を運んだ。
 あかるい光線が、茶室にあふれていた。それは、四角い桃色となって、若松屋惣七の網膜を打った。そのなかで、ほっそりした人影が、ゆらりとなびいた。何者か、自分の留守に、この帳場へ来ているのだろうと、彼は思った。同時に、からだ恰好《かっこう》の直覚が、惣七に、その人影はお高であると断定させた。
「お高か」
「はい。お高でございます」
「何しにここへ来ておるのだ。わしがおらんときは、誰もはいってはならぬことを知らぬのか」
 惣七は、不愉快な顔をした。不愉快な顔をすると、両眼と、そのあいだの傷あとが、一線に結びつくのだ。机の前へ行って、すわった。机の上で、彼の手に触れたものがある。文箱だ。
「来書か」
 といって、惣七は、その状箱を両手に握った。嗅《か》ぐように、鼻さきへ持っていった。眼に近く、いろいろにすかして見ている。こうしているうちに、どうかすると、見えることもあるのである。
 高音どのへ、若松屋あつかい磯五の件、とお高の字が読めてきた。
「お!」と、若松屋は、首をかしげた。「これは、きのう送ったはずの手紙ではないか。もう、返書が参ったのか」
「いいえ」
「なに? 返書ではないと」
 惣七は、がた、がた、がたと急《せ》き込んできて、文箱をあけた。
「や、これ、封が切ってあるぞ」
 いいながら内容《なかみ》をつかみ出した。巻き紙がほぐれて、ばらり、手から膝へ垂れた。それを風が横ざまに吹き流した。
「うむ。これはどうしたというのだ。持たしてやったはずの手紙がどうしてここにあるのだ。これ、
前へ 次へ
全138ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング