お高のあいだには、夫婦としての共通の理解も感情もあろう。それに、お高のこころは、事実、磯五に傾いている。自分はひっきょう用のない第三者なのだ。そう思うと、磯五の売った喧嘩を買って出る勇気もないほど、はやさびしい気もちに打ちのめされていたのかもしれない。
 むっと、土のにおいのする陽《ひ》ざしだ。
 濃い影を地面におとして、お高の乗った駕籠は、上水とお槍組《やりぐみ》のなまこ塀《べい》のあいだを、水戸《みと》様のお屋敷のほうへ下《くだ》って行った。磯五が、顔を光らせて、駕籠のそばにぶらぶらついて行った。ふところ手をして、黙りこんでいた。
 お高も、駕籠に揺られながら、黙って、頭は、いま残して出て来た若松屋惣七のことを考えていた。あんなに打たれて、何ともないかしら? なぜあの方は、立ちむかおうとなされなかったのだろう? 悪いお眼が、いっそうわるくならなければよいが――自分のことを、いったい何と考えていられるであろう?
「高音、しばらく見ぬうちに、おそろしく容子《ようす》がよくなったじゃないか」
 駕籠のそとから、磯五がいっていた。お高は、答えなかった。
「おれもまあ、上方《かみがた》のほうで、いろんな人間にもまれて、ちっとは変わったつもりだが――おい、久しぶりに会ったんだ。あんまりうれしくねえこともないだろう。そういやな顔をするなよ」
「知りませんよ。ちっともうれしくありませんよ」
「御あいさつだな。おめえ何か、あの御家人くずれのめくら野郎に、惚《ほ》れているんじゃああるめえな」
「何という下素《げす》なもののいい方です。ちっとも昔と変わっていないじゃありませんか」
「そうかな。これでも、酒だけはよしたよ」
「あら、お酒を? まあ、どうしてよしたの」
 お高はあれだけよせなかった酒をよしたと聞くと、ちょっと世話らしい興味が動いて、思わずきいた。
「大病をしてなあ。死ぬか生きるかだった」
「どこで?」
「泉州《せんしゅう》の堺《さかい》だったよ」
「まあ――」
 ちょっと、しんみりした空気のまま、またしばらく黙って歩いた。磯五が、いった。
「あいつ恐ろしくがまんづよい奴じゃないか。見上げたもんだぜ」
 駕籠の中から、甲高《かんだか》い声が、走り出た。
「若松屋さんのことなら、もう何にもいわないでください――」
 磯五は、声をたてて笑った。

      六

 日本ばしの
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