。
磯五がなぐり終わったとき、惣七は証文をやぶり終わっていた。
惣七は、手の上の紙きれをふっと吹いた。雪のように飛んだ。惣七は、ところどころ色の変わった顔を上げた。笑っていた。
「磯屋さん、もういいのかね?」
五
若松屋惣七という人間は、妙な人間だ。ときとして、こんなに鉄のように固いのだ。すこしも感情を外へあらわさない。茶坊主あがりのならず者磯屋五兵衛も、さすがにうす気味わるくなったものか、なぐっていた手を引っこめて、あきれたように、惣七を見た。
惣七は、にこにこしていた。磯五は、泣きくずれているお高を引っ立てて、早々に帰ろうとしていた。彼は、惣七とお高のまえに嘘《うそ》八百をならべたものの、じつは、女房の高音と知りつつ二百五十両を取り立ててもらうつもりで、なおよく頼み込みに自分で若松屋へ出かけて来たのだが、そこで思いがけなく高音のお高に会って、引っこみがつかなくなり、証文を棒に振ったくやしまぎれに、間男をいい立てて惣七をなぐったのだ。
彼は、これを種に、いずれ若松屋をいたぶるつもりでいるのだが、今は、いくらなぐっても、相手が平気に澄ましているから、始末がわるい。一つどうんと惣七を蹴倒《けたお》しておいて、お高を促して部屋を出ようとした。
お高は、泣いて、惣七に取りすがっていた。
「旦那さま、ああいう乱暴者でございます。わたくしのことから、とんだめにおあわせ申して――何か話があるから、店へ来るようにとか申しております。ちょっと行って参ります」
「ああ行きなさい」若松屋惣七は、何ごともなかったように、けろりとしていた。「もう帰って来んでもよい。もちろん、帰ってこんだろうが、帰って来ないでも、わたしは困らぬというのだ。安心して、磯屋さんのいうとおり、またいっしょになれるものなら、いっしょになったがよかろう」
「いいえ。そんなそんな悲しいことをおっしゃらずに――お高は、きっと帰って参ります。おそくとも、必ず夕方までに帰って参ります」
そういって、お高は、磯五の待たしてあった駕籠《かご》に乗せられて、金剛寺坂の家を出たのだった。若松屋惣七は、つるりと顔をなでて、すわったまんまだった。若松屋惣七は、へんないきさつから、長いあいだの夫婦喧嘩《ふうふげんか》に飛びこんだようなもので、要するに、自分には何の関係もないことなのだ。
何といっても、磯五と
前へ
次へ
全276ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング