こんなうれしいことはござりませぬ」
 若松屋惣七は、ぷすっとして黙りこんでいた。お高は、ふたりのあいだにすわって、もじもじしていた。蒼《あお》い顔を極度に緊張させて、惣七と磯五を、いそがしく見くらべていた。彼女《かれ》はまだ、真昼の悪夢からさめきらぬ思いがしているに相違なかった。
 磯五が、ひとりで、他意なさそうにつづける。
「どうもひょんなぐあいでございますな」と、それから彼は、お高のほうへ向き直って、
「きょうはな、麻布十番の馬場やしき内高音というお女《ひと》から、呉服代二百五十両をお取り立てくださるように、こちら様へお頼みしてあるという番頭めの話を聞いて、それはお前、わたしの家内なのだとびっくりしてな、じつは早々取り消しに願うつもりで、こうしてわたし自身、あわてて飛んで来ましたわけさ。が、その家内が、こうしてこちら様に御厄介になっていようとは、わたしも夢にも知らなかったよ。どうしたえ、あれから」
 笑いをふくんで、快《こころよ》く聞こえる声だ。若松屋惣七は、その声のなかに、先天的な女たらしにつきものの、やわらかいしつこさを読んで、またこの上なく不愉快にされた。切り落とすように、彼はいった。
「わかりませぬな」
 磯五とお高が、同時に惣七を見た。

「すると何ですか、磯屋さんは、お店からわたしに、高音さんのほうの取り立てがまわってきているということを、御存じなかったというんですね。それが、わたしにはわからない」
「いえ、ごもっともでございますが、なにしろ、店を譲り受けましたばかりで、それに、借り貸しの帳あいなど、かなり乱脈になっておりましたものですから、まだちっとも整理がついておりませんで――」
「それにしたところで」若松屋惣七は、表面いつしか、ふだんのあの夜の湖面のような、気味のわるい静かさを取り戻していた。
「それにしたところで、名と住まいで、すぐにお気がつかれそうなものと思われますがな」
「それが、でございますよ。わたくしは、あとになるまで帳面を見なかったので――いや、若松屋さん、あなたは、何かわたしが、知らん顔して現在の女房から――」
「おことば中だが、現在の女房とおっしゃるのは、ちとはずれておるように思われますが――」
「はて、げんざい自分の女房を女房と申すのに、何のさしさわりもあるまいと存じます――いえ、全く、わたしはこの高音に去り状をやったおぼえは
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