、彼が何よりもおそれている、白じらとした虚無の気持ちだった。
そういえは、お高と磯五は、ちょっとした身のこなし、ことばの端はしにも、共通なものがある、二人が、おたがいを開き合って暮らしたであろうころの想像が、一秒のうちに、若松屋惣七を、はげしい嫉妬《しっと》に駆った。
彼は笑いやんでいた。
「いろいろとお二人のあいだに、積もる話もござろう、中座いたす」
思わず、さむらいの前身が出た。膝をあげて、たちかけていた。
二
「いや」磯五が、手をあげてとめた。ころがるような、へんにまるい声だ。「いや、なに、驚きました。ちょっと、びっくりいたしましたよ」
あははと笑って、彼は立ち上がった。ふところからきれいに畳んだ手ぬぐいを取り出した。いきなりしゃがんで、お高のこぼした茶をふきはじめた。
「何という粗相だ! これ、おわびしないか――」
それはまるで、じぶんのところへ来た客に、妻の高音が粗相をしたような、もうすっかり主人らしい口調である。
これが、静観にかえりかけていた若松屋に、ぐっと激怒をあたえた。
「お高、ふけ!」
「はい」
お高はおどおどしてかがんだ。磯五が、さえぎった。
「いや、お前はよい。これはわたしがふきます」
「お高、ふけといったら、ふけ!」
「はい」お高は、あなた! と低声《こごえ》にいって、磯五の手から、はげしく手ぬぐいをとろうとした。磯五は、あらそった。ふたりのからだが、近く寄った。惣七は、あわてて眼をそらした。今の、あなたというのが、彼を、突然、いいようのないさびしさに突きおとしたのだ。
「いや、磯屋さん」若松屋がいっていた。「そりゃあもとは、あなたのお内儀だったかもしれませんが、今では、お高は、この若松屋の嬶《おんな》でございます。どうかお手をお引きねがいましょう」
若松屋惣七は、もう若松屋惣七に返っていた。磯五は、ちょっとけわしい眼をした。二人の男が、瞬間、気を詰めて向かいあった。
磯五は、畳をふく手をやめなかった。結局、こぼれた茶は、もとの夫婦によって掃除された。
磯五は座にかえった。
「ほう。お高《たか》――さまというのでござりますか。お高に高音、いや似たような人に、似たような名があるもので。は、は、は、は」と小刻みに笑ってから「思いがけないところで、行方知れずで捜しあぐんでおりました家内に出あいまして、ほんとに、
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