くるのだ。
「旦那様」お高が、あらためて呼びかけた。「わたくしは、ここに三両持っておりますでございます。どうぞこれを、磯五のほうへおまわしくださいまして、あとは、また待ってくれますように、どうぞあなたさまから、磯五のほうへ、おかけあい願えませんでございましょうか」
「馬鹿な!」
 若松屋は、唾《つば》を吐《は》くようにいった。
「だめでございましょうか」
「馬鹿な!」若松屋は、笑った。「そんなことをせんでも、そう事がわかれば、その二百五十両は、わたしが払ってやる」
 お高は、紅絹《もみ》のように赧《あか》い顔になった。
「いいえ、いいえ、めっそうもない! そんなことをしていただいては、冥加《みょうが》につきます。ほんとに、それだけは、御辞退申し上げます」
「なぜだ」
「なぜと申して、そんなことをしていただこうと思って、お話し申したのではございません」
「それは、わかっている。だから、貸すのだ。暫時《ざんじ》、貸すのだ」
 若松屋惣七は、いつのまにか、ほろ苦くほほえんでいた。お高は、あわてて、二度も三度もつづけさまにおじぎをして、やたらに手を振った。
「いえ、もう、それだけは――そのお志だけで、ほんとに、ありがとうございますが、でも、お立て替えくださることだけは、失礼でございますが、お断わり申し上げます」
「ふうむ。それはお高、あまりに他人行儀というものではないか」
「――」
「ははあ、読めたぞ。お前はまだ、そのすてられた男のことを思っているのであろう」
「――」
「これ、お高、そちは、その男のことを思いながら、わたしと、こういうことになったのか」
 若松屋惣七は、くちびるを白くしている。お高の顔にも、血の気がないのだ。

      五

 いきなり、若松屋惣七は、天井へ向かって笑い声をほうり上げた。いつまでも笑っている。いつまでたっても、馬がいななくように笑っているので、お高は、気味がわるくなったが、それでも、ほっとして、鬢《びん》のほつれ毛を指でなで上げた。
「もし、旦那様。わたくしが払いできずに、磯五が訴えましたならば、わたくしは御牢屋《おろうや》へはいらなければならないのでございましょうか。あの、ほかの方《かた》へ、貸金のさいそくを御代筆いたしますごとに、わたくしは、心配やら情けないやらで、死ぬような思いを致しましてございます。
 でも、こちら様から督促状が
前へ 次へ
全276ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング