一つ忘れたというのか」
 ふだんから青鬼の面のように蒼《あお》い顔だ。それが、いっそう蒼くなってお高のほうへ向いた。笑っているようにも見える。笑っているように見えるときは、若松屋惣七の激怒しているときだ。
「わたしは、とくに、この手紙を急いでおったのだ。その、いそぎのやつを選びにえらんで、忘れるという法はあるまい。いや、忘れたでは済むまい」
 お高は、たたみの上で収縮した。
「はい」
「はい、ではない。はいではわからぬ!」
「はい、あの――」
「ちいっ! はい[#「はい」に傍点]ではわからぬと申すに!」
「――」
「しかも、これ、開封してある」
 若松屋惣七は、急に、しずかな口調を取り返した。
「お高、お前、どこか気分でもすぐれぬのではないかな」
 すると、お高が、いつになくきっぱりした声をあげたのだ。
「いいえ。ただそのお手紙はわたくしのでございます」
「なに? 何のことだそれは」
「わたくしのでございます」
「この手紙が、か」
「さようでございます。そのお手紙は、わたくしにあてたものでございます」
 ほう! ――というように、若松屋惣七の口が、長くなった。長くなったまま、無言がつづいた。

      二

 お高が、いっている。こわれた笛のような声だ。
「はい、それはわたくしあてのお手紙でございます。でございますから、わたくしが拝見いたしました」
「そうか」
 と、若松屋惣七は、驚愕《おどろき》をふきとるために、顔をなでた。平静を装おうとしているのだ。
「そうか。高音《たかね》というのは、お前であったか。高音とお高、なるほどな。知らなかったぞ」
 もう一度、顔をなでる。なでながら、見えない眼が、指のあいだからお高をみつめた。鼻に、皺《しわ》が寄った。
「ふん。お前が高音か。そうか。そんなら、手紙をひらいたに不思議はない。本人だからな。あはははははは、それがどうしたというのだ?」
 どうしたというのだ? と、笑いを引っ込めて、若松屋惣七は、膝を振り出した。いらいらしてきたのだ。
 三年まえに、麻布十番の馬場屋敷に住んでいて、そこで、日本橋式部小路《にほんばししきぶこうじ》の太物商磯五の店から、二百五十両の買い物をして、それからこんにちまで、払いを逃げまわってきた高音という女――それが、お高と名をかえて、じぶんの屋敷に住みこみ自分も今では、稼業《しょうばい》の右腕
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