たのだろう。惣七は、ふうっと腹中にたまっていた夜気を吹き出して、かわりに、思い切り日光を吸い込んだ。それにしても、眼の不自由な自分が、いま朝の水を使おうとしているのに、お高が出て来ないというほうはない。惣七は、手を鳴らした。耳を傾けて、反響を待った。どこからも、何のこたえもない。お高は、いないらしいのだ。
若松屋惣七は、舌打ちをした。そこらをなでるようにして、顔を洗った。口をゆすいだ。手さぐりで、廊下を進んだ。彼は、自家《うち》のなかでもこうなのだ。年とってからの眼の故障なので、感がわるいのである。
若松屋惣七は、毎朝、洗顔《すすぎ》がすむとすぐ、彼の帳場である奥の茶室へ引っこんで、一日出て来ないのだ。食事もそこでするのだ。で、壁に手をはわせて、若松屋惣七は、そろりそろりと足を運んだ。
あかるい光線が、茶室にあふれていた。それは、四角い桃色となって、若松屋惣七の網膜を打った。そのなかで、ほっそりした人影が、ゆらりとなびいた。何者か、自分の留守に、この帳場へ来ているのだろうと、彼は思った。同時に、からだ恰好《かっこう》の直覚が、惣七に、その人影はお高であると断定させた。
「お高か」
「はい。お高でございます」
「何しにここへ来ておるのだ。わしがおらんときは、誰もはいってはならぬことを知らぬのか」
惣七は、不愉快な顔をした。不愉快な顔をすると、両眼と、そのあいだの傷あとが、一線に結びつくのだ。机の前へ行って、すわった。机の上で、彼の手に触れたものがある。文箱だ。
「来書か」
といって、惣七は、その状箱を両手に握った。嗅《か》ぐように、鼻さきへ持っていった。眼に近く、いろいろにすかして見ている。こうしているうちに、どうかすると、見えることもあるのである。
高音どのへ、若松屋あつかい磯五の件、とお高の字が読めてきた。
「お!」と、若松屋は、首をかしげた。「これは、きのう送ったはずの手紙ではないか。もう、返書が参ったのか」
「いいえ」
「なに? 返書ではないと」
惣七は、がた、がた、がたと急《せ》き込んできて、文箱をあけた。
「や、これ、封が切ってあるぞ」
いいながら内容《なかみ》をつかみ出した。巻き紙がほぐれて、ばらり、手から膝へ垂れた。それを風が横ざまに吹き流した。
「うむ。これはどうしたというのだ。持たしてやったはずの手紙がどうしてここにあるのだ。これ、
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