ありましょうや。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は、けっして精進はいたされません。魚類で結構、どころか、魚類でなければならぬ。手前は、誰が何といっても、魚類を進ぜるつもりです。」
 吉良は、背骨が棒に化《な》ったように硬直して、唾を呑《の》んでいるだけだった。
 手が、自動的に、ひらいたり閉じたりして、袴の膝を握りしめていた。

      二

「いえ、けっして、お思召しに添わないなどと、さようなことを申すのではございません。ただ――。」
 押さえ来かかった吉良の手だった。それを、あまり強く払ったことに気づいて、お糸は、はっとしていた。
 ここで、こんなことで露顕しては――と、お糸の糸重は、無理に艶《つや》やかな媚笑《わらい》を作った。
「そのお約束で、御奉公に上っております糸でございます。何で御意《ぎょい》に抗《さから》いましょう。殿様さえお心変りなさらなければ、末長く――でも、きっとすぐお飽きになって――。」
 いいながら、いくら間者《かんじゃ》としても、心にもない言《こと》を――と思いながらも、糸重は、現在、良人、良人の兄、自分を苦しめている吉良へ、こんなことまで口にして、媚《こび》を、と、ぞっとした。
 刺し殺したいほど、吉良への憎悪に燃えた。
「ただ、何だ――それなら、なぜ肯《き》かれぬ、と申すのじゃ。」
 蒲団にすわった吉良は、みょうに白けた顔で、眼が、異常に光っていた。
 はらわれた手のやり場に困って、襟をかき合わせた。
 乾いた音だった。
「妾が――意に添うも添わぬもないはず。理由《わけ》を申してみい。」
 いつものように、吉良の就寝を見て、自室《へや》へ引きとろうとしていた糸重だった。軽くあらそった衣紋の崩れをなおして、夜着の裾のほうに、遠くすわっていた。
「わけと申して、べつに――。」
 吉良は、何気なくよそおっていた。が、老人《としより》らしくもなく、手出しして拒《は》ねられたという照れ臭さが、寝巻きの肩のあたりに見られた。
 しかし、お糸は、はじめから妾に来たのだった。妾に、こんな手間ひまのかかる女が、あってもいいものだろうか、と、吉良は、不思議な気がした。ばかばかしく思った。
 いっそ暇を――が、そうもならなかった。それは、たんに未知へのあこがれかもしれなかったが、いつの間にか、愛着らしいもののできているのも、いなめなかった。平茂と
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