ありたい。上野《こうずけ》がすべて心得おるから、あれに尋ねたなら勤まらぬことはあるまいと思われるが――。」
 と、眼を苦笑させて、ちらと岡部美濃守を見た。
 そういわれると、それでもつとまらないとはいえないのだった。
「さようならば――。」
 無理往生だった。出雲守は、仕方なしに、引き受けないわけにはいかなかった。
「身に余る栄誉――。」
 と小さな声だった。が、相模守の眼を受けた岡部美濃守は、口を歪めて、微笑していた。
「お受けいたします。なに吉良殿などに訊《き》くことはありません。私は、私一個の平常の心掛けだけでやりとおす考えです。」
 どさり、と、重く、畳に両手をついて、横を向くようなおじぎをした。

      二

 上野介《こうずけのすけ》は、無意識に、冷えた茶をふくんだのに気がついた。吐き出したかったが、吐き出すかわりに、ごくりと飲み下して眉根を寄せた。
「何だ、これは――何だと訊いておるに、なぜ返事をせんか。」
 すこし離れて、公用人の左右田《そうだ》孫三郎が、頸《くび》すじを撫でながら、主人を見上げた。
「御覧のとおり、扇箱《おうぎばこ》でございます。」
「扇箱は、見てわかっておる。その扇箱がどうしたというのだ。」
 鍛冶橋《かじばし》内の吉良《きら》の邸で、不機嫌な顔を据えた上野介の前に、扇箱が一つ、ちょこなんと置いてあった。
 年玉などに使う、八丈を貼った一本入れの、粗末なものだった。空箱で、竹串がはいっていて振るとがらがら音がした。高価《たか》く踏んで、四十五文か、精ぜい五十文の物だった。
「立花出雲は、添役じゃぞ。」吉良は、漆《うるし》のように黒く光る眼を、いそがしく瞬《またた》いた。「孫三、出雲から、何がまいったとやらいうたのう――。」
「は。天瓜冬の砂糖漬、鯛一折、その他国産色いろ――。」
「砂糖漬には――これだけとか申したな?」
 ちょっと逡巡《ためら》ったのち、上野は、人さし指を一本立てて見せた。百両《ひとつ》の意味だった。
 珍奇な、天瓜冬の砂糖菓子に小判を潜めて、賄賂《まいない》を贈る風習だった。天瓜冬の砂糖漬といえば、やるほうにも貰うほうにも、菓子のあいだに相当の現金《もの》が挾《はさ》めてある、無言の了解があった。
 孫三郎も閃めくように指一本出してうなずいた。
 扇箱を顎でさして、吉良が、呻《うめ》いていた。
「気の毒だな
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