これを書き上げたのである。八月に版元へ廻す原稿を勉強して五月前に仕上げて春亭へ頼んだのである。勝川春亭は三馬にはいろいろ厄介になっていて恩もあるけれど、前のことがあるので意地になってわざと遅らした。京伝の草稿が来ているし、その版元の泉屋市兵衛のほうからやいやい言ってくるのでそっちのほうを先に描いた。驕慢な三馬が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵に差し出口をきくので懲らしてやれと思ったのである。そのために京伝の作は早くできたが、三馬の「於竹大日」は肝心の正月の間に合わなかった。
「なんでえ、べらぼうめ。約束しておいたじゃあねえか。おいらのほうが早く書き上げたんだから、一日でも京伝より早く開市にするのが順道じゃあねえか。もし遅れたら以後春亭とは絶交だと言っておいたが、果して春亭のためにおれのほうが遅れて開板となったから、もうこれからは春亭が方へは行かねえ。」
と三馬は青筋を立ててそのとおり「雑記」にも書いた。
「春亭は曲のねえ、恩を知らねえ男だ。」
とも言った。が、春亭にしてみれば、京伝のはお夏清十郎の華やかな明るい場面だのに、三馬の「於竹大日」はのべつに出てくる幽霊と暗い陰惨な世界の連続なので嫌気がさしてしまったのだった。
「於竹大日」のあらすじはこうである。
藪だたみの泥助という賊に傷つけられたのが因で奥州の百姓亀四郎は癩病になる。遺されたお竹は大層な孝女だが、父亀四郎の死骸は悪鬼に掴み去られてしまう。お竹は邪慳な母お鶴の病いを癒さんと夜詣りをして雪中に凍《こご》えていると、地蔵菩薩に助けられて地獄をめぐって生き返る。それからいろいろなことがあって話は賊の泥助を追って甲州へ飛び、伏見へ走り、さまざまな事件と人物があらわれた後、亡魂がお竹を大日如来と崇《あが》め、十念を受けて初めて成仏するなどというぱっとしない作柄で、表紙から裏表紙まで亡霊と血痕でうんざりするような作品であった。それで春亭も気が進まなかったのだが、三馬と春亭が白眼《にら》み合っては出版元が困るから付木店の摺物師《すりものし》山本長兵衛という人が仲人となってこの戯作出入りを扱うことになった。
それは文化八年の四月十九日で、朝のうちから曇ってぱらぱらと村雨の落ちている日であった。暮れに移転した三馬は、本町二丁目の新居から手打ちの会所である通油町新道の旗亭若菜屋へ出かけて行った。会は夜の六つ刻に始まった。春亭は相弟子の春徳といっしょに列席して他意なさそうに三馬と談笑した。和睦の宴は順調に進んでそれはいつの間にか戯作者仲間の評判から文壇のうわさ話に酒とともに調子づいて行った。
この会のあることをその前日に三馬から聞いた六樹園は、戯作者がそんなに一日も早くと自作の開板を争って、そのために画工とぶつかるなどという気持ちがどうしてもわからなかったので、研究のつもりでこの会へ出てみようと思った。
六樹園が若菜屋へ着いた時は宴はもう酣《たけなわ》であった。婢《おんな》に案内されてその座敷へ通ろうとした六樹園は、ふとその席から六樹園六樹園と自分の名が洩れて来るのを聞いて縁の障子のかげに足をとめた。
一わたり最近に出た敵討ものの批評が終って、誰かがあの六樹園作「敵討記乎汝」のことを、持ち出したところだった。
素人の一般大衆はとにかく、これは作者や※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画家版元のあつまりだから、きっとここではあの作の評判は素晴らしくいいだろうと六樹園は面をかがやかして立ち聞いた。
「敵討記乎汝とは、なんという戯けた題でげしょう。六樹園も焼きが廻りやしたな。」
と誰かが大声に笑った。皆の爆笑がそれに加わった。
「いや、あの作は戯けているようで、心がすこしも戯けておりやせん。こころに重いもののある嫌味な作品でげす。」
と言ったのは三馬の声であった。
「調子を下ろしさえすればいいと思っていやすから、読む者の心がすこしもわかっていやせん。あの仁には戯作は無理でげす。可哀そうでげすよ。総じて文学者は学が鼻にかかり、己れに堕ちて皆あんなものでげす。」
とも言った。
「狙《ねら》いが外れていやすな。」
と言ったのは勝川春亭であった。三馬は無言で合点《うなず》いたらしかった。
六樹園はもうその席へはいって行く気がしなかった。俗物どもが! いい気なものだと思った。しかしどこからか敵討たれ記乎汝と言われているような気がした。六樹園はそのままそっと若菜屋の玄関へ引っかえして低声《こごえ》に履物を呼んだ。彼は四谷の六樹園書屋に自分の帰りを待っている雅言集覧の未定稿に、これから夜を徹して加筆する仕事を思って急に愉快になった。
底本:「一人三人全集 2 時代小説丹下左膳」河出書房新社
1970(昭和45)年4月15日初版発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:奥村正明
校正:小林繁雄
2002年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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