無邪気なほど三馬は得意気にそう言った。西宮というのは本材木町一丁目西宮新六という書舗であった。三馬の口から共鳴を得ようと思っていた六樹園は失望してその嬉しそうな三馬の顔を侮蔑をこめて見つめた。
「それに味を占めて敵討物はその後も二、三物しやした。箱根|霊験蹇仇討《れいげんいざりのあだうち》、有田唄《ありたうた》お猿仇討、それから二人禿対仇討《ふたりかむろついのあだうち》、鬼児島誉仇討《おにこじまほまれのあだうち》、敵討宿六娘、ただいまは力競稚敵討《ちからくらべおさなかたきうち》てえ八巻物を書いておりやす。」
「ほほう、それでは宇田川町にもあえて劣りますまい。お盛んなことで。」
 と六樹園は皮肉を含ませて言ったが三馬にはそれが通じたのか通じないのかすまして答えた。
「なに、それほどでもげえせん。」
 そのまったく世界の違った三馬のようすを見ているうちに、一つの素晴しい考えが六樹園の頭に来た。
 こんな無学な、文学的教養のない式亭輩が興に乗じて一夜に何十枚となく書き飛ばして、それで当りを取るような敵討物である。それほど大衆の程度が低いのだ。何の用意もなく思いつき一つで造作もなく書けるにきまっている。この三馬などが相当に大きな顔をしているのだから合巻読み物の世界はじつに下らない容易いところだ。今この自分、六樹園石川雅望が、このありあまる国学の薀蓄《うんちく》を傾けて敵討物を書けばどんなに受けるかしれない。大衆は低級なものだ。他愛ないものだ。拍手喝采《はくしゅかっさい》するであろう。自分の職場を荒らされて、この三馬などはどんな顔をするだろう。それを見たいものだ。一つ敵討物を書いてやろう。六樹園はそう思いつくと同時に、はたと膝を打った。眼を輝かして乗り出した。
「式亭どの。私もひとつ敵討ものを書いてみようかと思いますが。」
「それは結構なことで。ぜひ一つ、拝見いたしたいものでげす。」
 三馬は興なげに答えた。

      三

 国学者の自分が今|時花《はやり》の敵討物に乗り出して大当りを取りこの三馬をはじめ、いい気になっている巷間の戯作者どもをあっ[#「あっ」に傍点]と言わせて狼狽させ、一泡吹せてやることを思うと、六樹園はその痛快さに、本領である源注余滴《げんちゅうよてき》や雅言集覧《がげんしゅうらん》の著作狂歌などに対するとは全然別な、それこそ仇敵討ちのような興奮を覚えずにはいられなかった。
「一般の読者は低劣なものでしょう。使丁《してい》走卒《そうそつ》を相手にする気で戯《ふざ》け半分に書けばよいのでしょう。」
 と六樹園はそれが骨《こつ》だと教えるように三馬に言った。三馬は表情をあらわさなかった。
「さあ、さようなものでげすかな。」
「尊公などの読者を掴む秘伝は何です。やはり筆を下げることでござろう。」
「下げると見せて下げるにあらず――。」
「いや、そうでない。大衆は済度《さいど》しがたいものです。愚劣な敵討物を騒ぐだけでもそこらのことはよくわかります。調子を低《さ》げれば大当り受合いだと思いますがな。」
「おのれから低めてかかってどうして半人なり一人なりに読ませて面白かったと言わせることができやしょう。それでは頭《てん》から心構えが違いやす。」
「なに、失礼ながら尊公などは臭いもの身知らずです。この私がぐんと調子を下げて、あたまに浮かび放題、筆の走るに任せてでたらめを書けば喝采疑いなしです。」
「でたらめに見えてでたらめにあらず。」
 三馬もさすがにちょっとむっとしてそう言った。
 すると六樹園は面白そうにこう提案した。
「一つ競作をやりましょうかな。これから尊家が一作、不肖《ふしょう》が一作、ともに敵討の新作を書き下ろして、どっちが世に受けるか競作というのをやってみましょう。いかが。」
「面白いでげしょう。と言いてえところでおすが、宿屋の飯盛大人に出馬されては、さしずめこの三馬など勝つ術《て》はげえせん。先生がその学識文才をもって愚婦《ぐふ》愚夫《ぐふ》相手の戯作の筆を下ろしゃあ、それ、よく言うやつだが、一気に洛陽の紙価を高めというやつさ。版元《はんもと》は先生の名を神棚へ貼って朝夕拝みやしょうて。」
 ほんとにそう思っているのかどうか三馬は唆《おだ》てるように言った。
 思っていることを言われて六樹園は悪い気はしなかった。もう根っからの戯作者らしく、
「なに、それほどでもげえせん。」
 と三馬の口真似をして笑った。とにかく純文学の六樹園と戯作渡世の三馬と、ここに競作をしようということに約束ができて三馬はまたぶらりと帰って行った。
 その夜から六樹園は敵討ちの黄表紙の筋立てを考えはじめた。できるだけ愚にもつかないことを恥知らずの無学な筆で下品に書き流せばいい、大衆は低いものだから調子さえ下げれば大受けに受けると思っているので、どうしたら馬鹿にしてかかることができるかとそれに骨を折った。難かしくなってはいけない。折助《おりすけ》やお店者や飴しゃぶりの子守り女やおいらん衆が読むのだからと絶えず自分に言い聞かせても、どうしてもその読者の正体が、あまりに広いためにはっきりしなくて雲を相手に筆を執るような意外な不安があった。
 六樹園はすこし持てあましたが、それにつけていつの間にか熱中している自分を発見して苦笑した。三馬はきっと相変らず酒を飲みながら楽々と書いているだろうと思うと、すこし憎らしいような気もした。
 敵討物の傍若無人の横行に業《ごう》を煮やしたことが動機となってやりだしたことだから同じようなものではもとより面白くないと思った。あまりに人死にが多く全篇血をもって覆われて荒唐無稽をきわめているのが、いくら狂言綺語とはいえ人心を害《そこな》うものだという建前に発しているので、自分は一つ、一人も人が死なず一滴も血をこぼさない敵討物を書いて一世を驚倒させてやろうと考えた。そして練り上げてできた一つの筋に、「敵討記乎汝《かたきうちおぼえたかうぬ》」の題を得た時、六樹園は得意満面で独りで大笑いに笑った。
 それだけわれ人を馬鹿にし、調子を下げれば、どんなに当るか想像もつかないと思った。この「敵討記乎汝」が出版されれば、髪結床でも銭湯でも人の寄り場はどこへ行っても、この作の評判で持ちきりだろうと思うと六樹園は苦笑しながらもいい気もちだった。ことに敵うち物の不快な横行に対する腹いせの意味も偶して「敵討記乎汝」とやったところはわれながら上できだと思った。
 六樹園は苦笑をふくみながらさっそく筆を下ろした。暢達《ちょうたつ》の文人だけに運筆は疾《はや》かった。ただ難かしくなるまいなるまいとたえず用心した。いかにして愚劣なものを書くべきかと努力した観があった。それはこういう思いきり洒落のめした物語であった。
 名門好みの高慢な若い男があった。天下に名を轟かして味噌を上げたいと心がけたすえ、まず兵法を習ったが失敗して、書を学んで成らず、つぎに役者を志したはいいが、たった初日一日が一世一代の冷飯に終ったので、今度は男伊達《おとこだて》を真似たものの、似た山と嘲られて色事師に転じた。そして振られ抜いたあげく、これではならぬとやむをえず今度は一つ悪狐を退治して名を揚げようと野原へ出た。
 そこで過って伯父の小鍛冶《こかじ》宗遠《むねとお》を殺《あや》め、仇敵と狙われることになったのをいいことに、敵討興行の看板を揚げて勝負をしようとしたところが、自分に余計な助太刀があらわれて相手を返り討ちにしてしまった。あまりの不憫《ふびん》さに無常を感じ、法体となって名を蔵主《ぞうす》と改めたと見しは夢、まことは野原の妖狐にあべこべに化かされて、酒菰《さかごも》古畳《ふるだたみ》を袈裟《けさ》衣《ころも》だと思っていたという筋である。
 いかさま低級な、人を小馬鹿にした話で、これが受けないわけはないと六樹園は大変な意気込であった。
 六樹園はこの巻の終りにこう書いた。
「この本に誰ひとり怪我をした者がない。この上もなくめでたいめでたい。」
 と思う存分一世を皮肉ったつもりであった。
 ところがこの「敵討記乎汝」は出版されてみるとすこしも売れなかった。洛陽の紙価を高めるどころか何の評判も聞かなかった。六樹園はことごとく案に相違してひどく気に病んだ。出版後それとなく出入りの者に噂のよしあしを訊いてみたり、当分のあいだ家人をあちこちの床屋や湯屋や人の集まる場所へやって探らせてみたが、そういうところでの評判は相変らず低級な戯作者どもの作品ばかりで「敵討記乎汝」の一篇は脱稿と同時にまるで火をつけて燃やしたようで、てんで存在しないもののごとく何人の口の端《は》にも上らなかった。
 受けないはずはないが、何がたらないのだろうと、六樹園はちょっと悩んだ。結局、これでもまだ程度が高いのだろう、大衆はなんという低劣なのであろうと考えて、それでやっと自らを慰めたが、どこからか敵討記乎汝と自分が言われているようで、当分不愉快でならなかった。

      四

「七役早替。敵討記乎汝」六樹園作、酔放《すいほう》逸人《いつじん》画《が》の六冊物が世に出たのは文化五|戊辰年《ぼしんのとし》であった。
 一方、三馬は六樹園との競作の約束などはすっかり忘れて相変らず本石町新道の家で何ということない戯作三昧《げさくざんまい》に日を送っていた。
 彼は文化[#底本では「文政」]七年に「於竹大日忠孝鏡《おたけだいにちちゅうこうかがみ》」という敵うち物を出して相当のあたりを取った。それは善悪両面と鏡の両面に因《ちな》んだ枕がきのついた七冊続きであったが、画工の勝川《かつかわ》春亭《しゅんてい》と争いを起してここにはしなくも文壇画壇のかなり大きな事件となった。
 三馬はその性質のせいかよく※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画家と喧嘩をした。阿古義《あこぎ》物では豊国と衝突して、版元|文亀堂《ぶんきどう》の扱いでやっと仲直りし、この同じ文化七年に同店から出した「一|対男時花歌川《ついおとこはやりのうたがわ》」で再び作者三馬と画工豊国とを組ませて、納めることができたのに、またここに今度は春亭とぶつかってしまったのである。
 この「於竹大日」は、安永六年に芝の愛宕で開帳した出羽国湯殿山、黄金堂玄良坊、佐久間お竹大日如来の縁起を材料にしたもので、その時にも青本が行われたのを三馬がいま黄表紙に仕立てたものである。業病、冥府《めいふ》、変化《へんげ》の類が随所に跳梁する薄気味の悪い仇うち物であった。ぞっとするような陰気な絵面ばかりなので春亭もあまり絵筆を持つ気がしなかったほどであったが、それが紛争の因《もと》で、相手が三馬なのでこじれるだけこじれて行った。
 版元は鶴喜《つるき》であった。一時|喧伝《けんでん》された奥州佐久間の孝女お竹なる者が生仏として霊験をあらわすという談《はなし》を前篇四冊後篇三冊に編んだもので、三馬としては当て込みを狙ったちょっと得意の作であった。絵の勝川春亭とは以前にもよく組んだ。文化五年に三馬が「力競稚敵討」を書いて近江屋権九郎版で出した時も※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵は春亭だったが、戯作の絵に筆を執ること十年で多分に自信のある春亭の努力を無視して、三馬は式亭雑記にこんなことを書いた。
「尤《もっと》も春亭、画図|拙《つたな》くして余が心にかなわざるところは板下をも直して、悉《ことごと》く模写を添削《てんさく》したる故大当りとなりぬ。」
 また書いた。
「故におもわずも其年の大あたりにて、部数他の草紙に比して当年の冠たり。」
 これを聞いて、絵草紙の売れ行きは一に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画のためと鼻をうごめかしている春亭は非常に感情を害した。そこへ翌年三馬の「於竹大日」の原稿が廻って来た。癪に触っているから春亭はうっちゃらかしておいて後から来た京伝のお夏清十郎物に精を出して描いた。
 三馬は本石町四丁目新道の家で参考書も不自由な物侘びしい中で
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