屋へ出かけて行った。会は夜の六つ刻に始まった。春亭は相弟子の春徳といっしょに列席して他意なさそうに三馬と談笑した。和睦の宴は順調に進んでそれはいつの間にか戯作者仲間の評判から文壇のうわさ話に酒とともに調子づいて行った。
 この会のあることをその前日に三馬から聞いた六樹園は、戯作者がそんなに一日も早くと自作の開板を争って、そのために画工とぶつかるなどという気持ちがどうしてもわからなかったので、研究のつもりでこの会へ出てみようと思った。
 六樹園が若菜屋へ着いた時は宴はもう酣《たけなわ》であった。婢《おんな》に案内されてその座敷へ通ろうとした六樹園は、ふとその席から六樹園六樹園と自分の名が洩れて来るのを聞いて縁の障子のかげに足をとめた。
 一わたり最近に出た敵討ものの批評が終って、誰かがあの六樹園作「敵討記乎汝」のことを、持ち出したところだった。
 素人の一般大衆はとにかく、これは作者や※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画家版元のあつまりだから、きっとここではあの作の評判は素晴らしくいいだろうと六樹園は面をかがやかして立ち聞いた。
「敵討記乎汝とは、なんという戯けた題でげしょう。六樹園も焼きが廻りやしたな。」
 と誰かが大声に笑った。皆の爆笑がそれに加わった。
「いや、あの作は戯けているようで、心がすこしも戯けておりやせん。こころに重いもののある嫌味な作品でげす。」
 と言ったのは三馬の声であった。
「調子を下ろしさえすればいいと思っていやすから、読む者の心がすこしもわかっていやせん。あの仁には戯作は無理でげす。可哀そうでげすよ。総じて文学者は学が鼻にかかり、己れに堕ちて皆あんなものでげす。」
 とも言った。
「狙《ねら》いが外れていやすな。」
 と言ったのは勝川春亭であった。三馬は無言で合点《うなず》いたらしかった。
 六樹園はもうその席へはいって行く気がしなかった。俗物どもが! いい気なものだと思った。しかしどこからか敵討たれ記乎汝と言われているような気がした。六樹園はそのままそっと若菜屋の玄関へ引っかえして低声《こごえ》に履物を呼んだ。彼は四谷の六樹園書屋に自分の帰りを待っている雅言集覧の未定稿に、これから夜を徹して加筆する仕事を思って急に愉快になった。



底本:「一人三人全集 2 時代小説丹下左膳」河出書房新社
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