つける気か。」
すると甚吾は真赫《まっか》になってそれから真青《まっさお》になって、顫える手で茶碗をとって、冷えた茶を飲みほした。それきり俯向いていた。
会の帰り、甚吾左衛門は十郎兵衛にこっそりはたしあい[#「はたしあい」に傍点]を申し込んだ。
理由は、人なかにて雑言したこと。
期日。今夜四つ半。
場所。高輪光妙寺の墓地。
二人は顔を見合って大笑いした。そしたらさっぱり[#「さっぱり」に傍点]した。もうすこしもこだわってはいなかった。
三
花時の天気は変りやすい。午後から怪ぶまれていた空から、夕ぐれとともにぽつりと落ちて、四刻《よつどき》には音もなく一面に煙るお江戸の春雨であった。
討合《はたしあ》いのいきさつから、もしもわが亡きのちの処理、国おもての妻子の身の振り方なぞを幾通かの書面に細ごまとしたためて、十郎兵衛が部屋で一服しているところへ、刻限でござる、そろそろ出かけようではないかと言って、甚吾左衛門が迎えに来た。応《おう》と立ち出ると、そとは雨だ。十郎兵衛、傘がない。
「相合傘と行こう。」
「よかろう。」
というので、長身瘠躯に短身矮躯《たんしんわいく》、ひとしく無骨者の両人、一本の蛇の目を両方から挾んで、片袖ずつ濡らして屋敷を出た。
いとど人のこころの落ちつく夜、それに絹糸のような雨が降っているのだ。道行めいた気分がすっかり二人をしんみりさせて、どっちからともなく、気軽に、歩きながらの会話《はなし》になった。
「降るな。」
「うん。陽気のかわり目だからな。」
「これでずん[#「ずん」に傍点]と暑くなるだろう。」
「暑くなるだろう。」
また黙って二、三歩往く。夜更けだから店の灯りもなく足もとがはっきりしない。
「おい、水たまりがあるぞ。」
「うん。ここはどこだ。」
「芝口だ。」
「芝口か。」
「うん。」
沈黙におちる。風が出てきた。
「貴公、濡れはせぬか。傘をこう――。」
「いやいや。これでよい。それより貴公こそ濡れはせぬか。」
「なんの。」
「よく降るな。」
「よく降るな。」
「ここらの景色――どうだ、城下はずれに似ておるではないか。暗くてよくは見えぬが。」
「さよう。そういえばそうだ。あの、何とかいう稲荷のある――。」
「ぼた餅稲荷であろう。」
「そうそうぼた餅稲荷の森から小川にそうて鼓《つづみ》ヶ原《はら》へ抜けよ
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