子から顔を上げて呼び停める)おやじ、待て!(禹徳淳へ)言ったほうがいい。ほんとのことを――安が迷っているということを言うべきだ。
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しんとして一同禹徳淳を凝視める。
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禹徳淳 (読み終る)国本確立は自ら成ることなかるべし。
(白基竜へ、悲痛に)僕にはその勇気がないんだ。今になって、この熱烈な同志たちに、安が――言えない。僕には言えない。(台所のドアに向って大声に繰り返す)
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国民たる義務を尽さずして
無為平安に坐せんには
国本確立は自ら成ることなかるべし
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一同呆然と、台所のドアと禹徳淳を交互に見守る時、硝子窓を荒々しく開けて朴鳳錫が顔を出す。
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朴鳳錫 (大声に)スパイは来ていないか。(同志一、二ら多勢窓際に駈け寄る)
同志一 スパイ――?
朴鳳錫 安のやつだ。安重根はスパイなんだ。
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とドアから駈け込んで来る。一同は罵り噪いで取り巻く。
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朴鳳錫 張首明と通じているんだ。あの床屋の張よ。先刻あいつがやって来て露《ば》れたんだが、おれは前から知っていた。安重根のやつ、伊藤公暗殺などと与太を放送しときゃがって、それを種に、おれたちの機密に食い込もうとしていたんだ。だから、いよいよというこの土壇場に、伊藤を殺っつける気なんかこれっぽっちもありゃあしない。(禹徳淳を見て)なあ徳淳、そうだろう? おれは今まで、李先生の命令で張の店を見張っていたが、白基竜は――。(白基竜を認めて)お! 白! 野郎いたか、停車場に。
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白基竜は無言で閉めきった台所の扉を指さす。
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朴鳳錫 台所にいるのか。何故みんな――畜生!
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一同激昂のうちに朴鳳錫はドアへ突進する。禹徳淳が抱き停める。
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禹徳淳 こら、早まったことをするな。安君の真意を突き留めてから――おい、朴を抑えろ!
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制しようとする者と、朴鳳錫とともに台所へ侵入しようとする者とで舞台一面に争う。禹徳淳、白基竜、黄成鎬ら台所のドアを守る。ついにドアが開かれて、電燈の暗い台所、ドアのすぐ向側に、安重根を庇って柳麗玉が立っているのがちらと見える。朴鳳錫を先頭に同志一、二、青年C、E、J、K、L等一団に雪崩れ込んで行く。
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9
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もとの台所。
第七場の続き。安重根は外套を着て歩き廻り、柳麗玉は尊敬を罩《こ》めて見惚れている。多勢の合唱が隣室から聞えている。
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安重根 (快活に)ルバシカの上から背広を着て、おまけにこのロシア人の大きな外套――とくると、考えものだぞ。日本人には見られないかもしれない。
柳麗玉 (一緒に考えて)今日お買いになったのね。この洋服や何か――でも、変装のことなんか、李剛先生は何ておっしゃって?
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「国民たる義務を尽さずして、無為平安に坐せんには――。」禹徳淳の繰返しがはっきり聞えてくる。
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安重根 (それを耳に傾けながら)日本人に見られないとすると、時節柄、怪しまれるにきまっている――。李剛先生?(苦笑)先生か。先生は、無論、暗殺そのものに反対さ。
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跫音人声など突如隣室の騒ぎが激しくなり、境の扉へぶつかる音がする。
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柳麗玉 (隣室に注意して不安げに起つ)安さん! 何でしょう――。
安重根 (熱して)正直のところ、僕は李剛さんを恨んでいる! 憎んでいる! いつだって、ああやって冷静に構えて反対しながら、その反対することによって僕を煽って、僕を使ってあいつを殺させようとしているんだ。解っている。ははは、わかっているよ。
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隣室の騒擾が高まって、ドアが開かれそうになる。柳麗玉はドアへ走って背中で押し止めようとする。
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柳麗玉 安さん!
安重根 (無関心に)あの人にとって、僕という存在は一個の暗殺用凶器にすぎない。僕にはそれがよくわかる。(力なく)わかっていてどうすることもできないのが、僕は、この自分が、自分であって自分でないような――。(狂的に叫ぶ)あの人
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