二年の紳士。和服も多い。紋付袴に二重廻し、山高帽。婦人達もすべて明治の礼装だ。群集は縦横に揺れ動いて、口だけ動く無言の歓談が続く、特務将校ストラゾフと領事館付岡本警部が、駅員を指揮して整理に右往左往している。出迎人は、後からあとからと詰めかけて来る。写真班が名士の集団に八方からレンズを向ける。
やがて鈴《ベル》が鳴ると、ココフツォフを先頭に一同ぞろぞろと、改札口から舞台の、奥の雪で明るいプラットフォウムへ出て行く。遠くから汽車の音が近づいて来ている。群集は改札口を出て雪の中を左右のプラットフォウムに散る。汽車の音はだんだん近く大きくなる。出迎人はすっかり改札口を出て待合室は空になる。改札口には誰もいない。ただ一人、下手窓下の椅子に安重根が掛けている。今まで群集に紛れて観客の眼にとまらなかったのだ。卓子に片肘ついてぼんやりストウブに当っている。茶いろのルバシカ、同じ色の背広、大きな羊皮外套、円い運動帽子。何思うともなき顔。ただ右手を外套のポケットに深く突っ込んでいるのはピストルを握り締めているのだ。
誰もいない待合室だ。安重根は無心に、刻一刻近づいて来る汽車の音に、聞き入っている。長い間。轟音を立てて汽車がプラットフォウムに突入して来る。耳を聾する響き。窓硝子を撫でて沸く白い蒸気。プラットフォウムとすれずれに眼まぐるしく流れ去る巨大な車輪とピストンの動きが、窓の上方、人垣の脚を縫って一線に見える。幾輛か通り過ぎて速力は漸次に緩まり、音が次第に低くなって、停車する。正面、改札口向うに、飴色に塗った貴賓車が雪と湯気に濡れて静止している。号令の声が聞こえて、露支両国の儀仗兵が一斉に捧げ銃する。
同じに喨々たる奏楽の音が起って、しいんとなる。安重根は魅されたように起ち上る。右手をポケットに、微笑している。そのまま前へよろめく。だんだん急ぎ足に、改札口からプラットフォウムへ吸い込まれるようにはいって行く。
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底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日初版発行
初出:「中央公論」中央公論社
1931(昭和6)年4月
※林不忘名義の底本に収録されていますが、発表時の署名は谷譲次です。
※改行行頭の人名、及び「時。」「所。」「人。」は、底本では、ゴシックで組まれています。
※ト書きは、底本では、小さな文字で組まれています。
※「ボグラニチナヤ」と「ポグラニチナヤ」の混在は、底本通りにしました。
入力:奥村正明
校正:松永正敏
2003年8月20日作成
2008年9月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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