ころへ、満鉄総裁中村是公、同理事田中清次郎、同社員庄司鐘五郎を伴い、濃灰色《オックスフォード・グレイ》のモウニングに、金の飾りのついた握り太のステッキをついた伊藤公がドアに現れる。人々は静かに低頭する。伊藤公は庄司に扶けられて車室の中央に進む。その時葉巻用のパイプを取り落す。庄司が急いで拾って恭しく手に持っている。伊藤は葉巻を手に、にこやかに人々を見廻す。
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アファナアシェフ少将 (きらびやかな軍服。伊藤の前に進んで)公爵閣下には御疲労であらせられましょうが、到着前に一場のお慰みにもなりましょうし、またお見識りの栄を得たく、御出席を願いましたるところ、幸いに御快諾下さいまして、光栄に存じます。東清鉄道民政部のアファナアシェフと申します。(握手する)
伊藤 自分がこのたびハルビンを訪問致すのは、なんら政治外交上の意味があるのではなく、ただ新しい土地を観、天下の名士ココフツォフ氏その他に偶然会見するのを楽しみにして行くに過ぎませぬ。
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庄司が背後から椅子を奨めるが伊藤は掛けない。
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伊藤 一度見ておきたいと思った満洲に、政務の余暇を利用し、皇帝陛下の御許可を得て視察の途に上ると、たまたま自分のかねて尊敬|措《お》く能わざる大政治家たる貴国大蔵大臣が、東洋へお出ましになるということで、途もさして遠くはなしお眼にかかりたいと思いついて何の計画するところもなく、いささか日露親和の緒にもならんかと思うて罷り出で、計らずもここに諸君にお眼にかかることのできたのは、余輩のまことに満足に思うところである。従来自分は、日露両国間にいっそう親密なる関係の進展する必要を感ずる、いたって切なるものでありますが、どうかこの親和の関係が、敬愛する諸君と同席の栄を得たるこの汽車の中に始まって、汽車の進むがごとく、ますます鞏固なる親交を助長するように期したいのである。諸君の健康を祝したいのでありまするが、朝であるから酒杯は略しましょう。
ギンツェ営業部長 (一揖《いちゆう》して)公爵閣下の仰せのとおり、いかなる障害、いかなる困難がありましても、吾人は決して、その困難、はたまた障害のために、両国の親交を損ずることはあるまいと信じます。
伊藤 (ちょっと鋭くギンツェを見て)これは珍しいお説である。(すこし不機嫌そうに)いや、障害、困難のごとき、余輩は老眼のせいか、さらにこれを認めませぬ。日露両国の関係は、この列車の疾走するがごとく、益ます前進しつつあるように見受けられる。(すぐ微笑して)|余は露人を愛す《ヤ・リュブリュウ・ルウスキフ》。(ギンツェと握手する)
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伊藤はこの「ヤ・リュブリュウ・ルウスキフ」を棒読みに、不器用に繰り返しながら、順々に握手する。一同微笑する。
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       14[#「14」は縦中横]

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パントマイム

同日午前九時、ハルビン駅構内、一二等待合室。

正面中央に改札口ありて、ただちにプラットフォウムに続く。改札口を挟んで、左右は舞台横一面に、腰の低い硝子窓。下手奥、窓の下にストウブを囲んで卓子と椅子二三脚。混雑に備えて取り片づけて、広く空地を取ってある。壁には大時計、列車発着表、露語の広告等掛けあり。下手は食堂《バフェ》の売台、背後に酒壜の棚、菓子の皿などを飾り、上手は三等待合室に通じている。

正面の窓の外はプラットフォウム、窓硝子の上の方に向うの線路が見える。寒い朝で雪が積もり、細かい雪が小止みもなく、降りしきっている。

窓のすぐ外、改札口の右側に露国儀仗兵、左側に清国儀仗兵が、こっちに背中を向けて一列に並んでいるのが、硝子越しに見える。

舞台一ぱいの出迎人だが、この場は物音のみで、人はすべて無言である。礼装の群集がぎっしり詰まって動き廻っている。そこここに一団を作って談笑している。知った顔を見つけて遠くから呼ぶ。人を分けて挨拶に行く。肩を叩いて笑う。久濶を叙している。それらの談笑挨拶等、その意《こころ》で口が動くだけでいっさい発音しない。汽車を待つ間のあわただしい一刻。群集の跫音、煙草のけむり、声のないざわめき。

美々しい礼服の日清露の顕官が続々到着する。その中に露国蔵相ココフツォフの一行、東清鉄道副総裁ウェンツェリ、同鉄道長官ホルワット少将、交渉局長ダニエル、清国吉林外交部の大官、ハルビン市長ベルグなどがいる。ボンネットの夫人連も混っている。日本人側は居留民会役員、満鉄代理店日満商会員、各団体代表者、一般出迎人。及び各国領事団。

日本人が大部分である。将校マント、フロック、モウニング、シルクハット、明治四十
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