つもりで、ああして皆を外出させて待っていたのだ。
安重根 (並んで坐る)今朝着いて、あの床屋の店で徳淳に会ったきり、どこへも顔出しせずに、午後いっぱい買物をしていました。ちょっと旅行に出るもんですから、着物や何か――。(行李を叩いて)今夜一晩、黄成鎬さんのところへ泊って、明日《あした》発《た》ちます。
李剛 あした発《た》つ? それはまた急だねえ。だが、日本の客は予定よりすこし早く着くことになった様子だから、なるほど。
安重根 (弁解的に)先生、私は家族を迎えにハルビンへ行くんです。
李剛 (笑う)それもいいだろう。
安重根 (懸命に)ほんとに家族を迎えに行くんです。
李剛 (いっそう哄笑《わら》って)まあ、いいですよ。解っている。あのスパイの張首明に、仲間であるようなことを言わせて、うちへ使いに寄こした君の心持ちもわかるような気がする。が、もう今ごろは、ウラジオ中の同志のあいだに、君が密偵《いぬ》臭いという評判が往き渡っていることだろう。
安重根 すると張首明は、頼んでとおりに、私と親しくしているような口振りだったんですね。
李剛 (心配そうに)朴鳳錫だの白基竜だの、言うなといっても言わずにはいられない人間だからねえ。
安重根 ははははは、そう思ってしたことです。朴君なり白君なりの口を出る時は、「あいつ臭いぞ。用心しろ」ぐらいのところでしょうが、それが、人から人と伝わっていくうちに、「安重根は日本に買われている」となり、「彼奴《きゃつ》はその金でさかんに女房の名で故郷《くに》に土地を買っているそうだ」などと、まことしやかな話が出て来るに決まっています。ははははは、私も昨今運動に入ったのではありませんから、そういうゴシップの製造過程はまるで眼に見るようにわかります。
李剛 まさかそんなことも言うまいが、しかし、若い連中の失望と恐慌は、相当大きなものだろう。なにしろ、今度の計画が知れてからというものは、安重根という名は彼らのあいだに一つの神聖な偶像になっているからねえ。
安重根 (不愉快げに)そんなこと言わないで下さい。だからこそ今日、わざわざあの日向臭い床屋の店で、張首明とかいう人に調子を合わせて、小半日も油を売ったのですが、すると、それも、私の期待したとおりの結果を生みそうですね。(淋しく笑う)裏口から使いが走って、日本人のスパイを呼んで来ましたよ。
李剛 (皮肉
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