ではあり得ない。では養子だろうというに、そうでもない。棄児《すてご》かといえばこれまたしからず。じゃあ何だということになると、実は何でもないのである。
ただへらへら[#「へらへら」に傍点]平兵衛の相識《しりあい》の按摩《あんま》の夫婦がどこからかもらって来て育てていたのが、去年女房に死なれて盲目《めくら》ひとりで困っているのを、平兵衛が勝手に引き取ってきただけのことなのだから面白い。
のんきな話もあったもの。
が、今では主人の玄鶯院が新坊でなくては夜も日も明けないありさまで、夜中に咳《せき》の一つもしようものなら守人と平兵衛を起こしまわっててんてこまい[#「てんてこまい」に傍点]を演ずるという騒ぎ。
きさく[#「きさく」に傍点]な連中がそろっているからどこの誰の子かは知れないが、新太郎も温い人情に包まれて、幸福に健やかに五つの春を迎えている。
三人の男世帯へ夜が来た。
夕餉《ゆうげ》を済ますと、和漢洋の書籍が所狭く積んである奥の一間で、玄鶯院は新坊を寝かしにかかる。
「坊やのお乳母《うば》はどこへ行た、あの山越えて里へ行た。里のお土産《みや》に何もろた。でんでん[#「でんでん」に傍点]太鼓[#「太鼓」は底本では「大鼓」]に笙《しょう》の笛――」
調子はずれの子もり歌が、薄暗い行燈《あんどん》の灯影《ほかげ》に揺れる。
と、守人は、すでに幾人《いくたり》かの生血を知っている水心子正秀《すいしんしまさひで》の作、帰雁《きがん》の一刀を腰にぶち込んで、忍びやかに方来居を立ちいでようとした。
「えへん」
玄鶯院の咳払いだ。
「守人殿、今ごろからどこへ行かるる?」
守人は土間にすくんだきり、返事がない。
「そこもとの身にはある筋の眼が光っていることを、よもやお忘れではあるまいの。昨日今日とでも怪しき風体の者が、この界隈《かいわい》に出没するということじゃ。夜歩きには充分に気をつけたがよいぞ」
「御心配御無用。私には供がございます。帰雁と申す――」
戞然《かつぜん》と鍔《つば》を鳴らして、守人は蒼白く笑った。
「さようか。それもよかろう。が、帰宅《かえり》のほども知れまい。雨催いじゃ。守人殿、傘《かさ》を持たれよ」
あとはまた子もり歌に変わって、
「西が曇れば雨となり、ひがし曇れば風となる。千石積んだる船でさえ、暴風雨《あらし》となれば出てもどる」
唄声を背後《うしろ》に、やがて守人は宵闇《よいやみ》の中へさまよい出た。ひやりと横鬢《よこびん》をかすめる水気に、ぱっと蛇《じや》の目《め》を差し掛けて、刀の柄を袖でかばった篁守人、水たまりを避けて歩き出した。
この、人が家に納まるころおいに家を出て、いったいどこへ行こうというのだろう?
しとしと[#「しとしと」に傍点]と春の夜の小雨が煙っている。
ぬれ燕《つばめ》
とんだあぶねえ二枚目だぜ
真昼間《まっぴるま》の恐怖は、白っぽいだけに人の背筋へ氷のような戦慄《せんりつ》を注ぎ込む。何やら得体の知れぬ力に押えつけられてただしいん[#「しいん」に傍点]と心耳に冴え返るばかりだ。百万千万の視線が、眼に見えぬ槍ぶすまとなって、前後左右と上下に迫って、動いたが最後、ぷすっとどこからでも血が出そうな気がする。
悪熱《おねつ》のようなこの静寂の中に、戸外から舞いこんだ桜ふぶきが悩ましく乱れ飛んでいる。
この一刻は長い。
湯島妻恋坂の影屋敷。
花の吹き込む二階で、いろは屋文次と御免安が、手に汗を握って前方《まえ》をみつめていると――。
ざ、ざざ、ざ――と襖があき出したが、これは向こう側に人がいるのだろう。いくら怪しい家でも唐紙がひとりで動くわけはない。
とはいえ、この空家にさっきからの人声。さては、鬼が出るか蛇が現われるかと、文次と安は上半身を前へかがめて互いに充分な気配り。何かは知らぬが、相手しだいではもちろんどんなにでもあばれるつもりだ。
と、さらり、襖があいた。
縁から射す未《ひつじ》の刻の陽をまともに浴びて、ひとりの若侍が立っている。
ぞろりとした着流しに長い刀《やつ》をりゃん[#「りゃん」に傍点]ときめて、所在なげに両手を帯前へ突っこんでいるのだが、それが、早い話が若様御成人といった形で、このところすくなからずあっけない感じだ。
文次はほっ[#「ほっ」に傍点]と息をもらした。気負いかかっていただけにいっそうきょとん[#「きょとん」に傍点]として、取って付けたようなおじぎをすると、侍はもうこっちの部屋へ踏み込んで来て、二人の鼻っ先に迫っている。
その顔を見て今度は文次、思わず、
「や! これは!」
と心中|驚愕《おどろき》の声をあげた。
まるで歌麿《うたまろ》の女である。月の眉、蕾《つぼみ》の口、つんと通った鼻筋に黒み
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