年齢《とし》のころは四十あまり、剃刀《かみそり》のような長い蒼白いあばた面、薄い一文字の口、鴨居《かもい》をくぐりでもしそうな珍しい背高、これぞ饗庭亮三郎その人である。
 口尻がぴくぴく[#「ぴくぴく」に傍点]と動いて、細い眼が、笑うように泣くようにじいっ[#「じいっ」に傍点]――自分をみつめているのに気がつくと、文次は不吉なものにつかれたようにぞっとした。
「まあま、どうぞお気を悪くなさらないように、何ともあいすみません、へえ」
 そんなような逃げ口上を用人に残して、早々に屋敷を出たのだった。
 戸外に立って、門の奥を振り返りながら、文次は考える。
 あれが妻恋坂の殿様か。へん、えらくにらんでいやあがったぜ。
 武士《さんぴん》が何でえ。
 二本差しがこわかった日にあ鰯《いわし》は食えねえんだ。ばかにするねえっ!
 だがよ、だがまあ、何て眼つきをする野郎だ! ちっ、胸っくそがわるいたらありゃしねえ。
 しかし、ああまでいい切る以上は受け取って隠しているものとも思われない。すると、例の鎧櫃は、いったい全たいどこへ行ったというのだ?
「おうい、親分、ひでえや」
 遠くから声がする。見ると、むこうから御免安がかけて来る。
「ひでえや、親分、待ちぼけを食わせるってなあひでえや」
 何がひでえ[#「ひでえ」に傍点]のか、不平たらたら、ふだんから寸の詰まった出上がりが今は仏頂面と来ているから、何のことはない、灯《ひ》のはいった河豚提燈《ふぐぢょうちん》だ、これを見ると文次、何やかや、今までのかんしゃく玉を一時に破裂させてしまった。
「安っ? どこへ行ってやがったっ?」
「へ?」
 と立ちどまった安兵衛、鳩が豆鉄砲をくったようだ。
「だって、親分はわっしに、饗庭の屋敷へ張り込むようにいったじゃありませんか」
「だからよ、だから何だって手前《てめえ》はここに立って、俺を待っていなかったてんだ?」
「おっと親分、待ってもらおう、饗庭の屋敷は此家《これ》じゃありませんぜ」
「なにを? 何いってやんでえ、俺はな、いま邸内《なか》へへえって用人にも殿様にも会って来たんだ。これが饗庭の屋敷でねえなんて、ぼやぼや[#「ぼやぼや」に傍点]するねえ。手前はなんだな、夢でも見ていやがるんだろう。面《つら》を洗え、面を」
 ぽんぽんやられて、安はすこし不審な面もち、しばらくそこの饗庭の門構えをながめていたが、やがてのことに、だんだんと顔に驚異の色が浮かんで来て、
「親分!」と叫ぶように、「こいつあよっぽど妙でげす、おんなじ家が二つありやすぜ」
 そういいながら安はやにわに文次の腕を取ってぐいぐい[#「ぐいぐい」に傍点]引っ張って歩き出した。
「どうせお前、旗本屋敷だ。同じ建造《つくり》の二つはおろか、江戸じゅうにあ何百となくあるわさ」
 うす笑いを浮かべて、それでも文次は安のなすがままに、そのうちに二人は、どっちから先ともなく、一散に道を走っていた。
 妻恋稲荷の杉並木に沿うて、二、三丁南へ下ると立売坂《たちうりざか》。
 登りつめればお駕籠者の組屋敷。
 と、その中途に、ちょうど饗庭の屋敷と背中合わせに、一軒の家が建っている。
「これだ、親分。どうでごわす、見分けがつきますかね」
 安兵衛が指さした。
 なるほど、これでは誰でも間違うのがあたりまえ、どう見ても全く同一で、ちょいと見分けがつかない。
 不思議といえば不思議。
 真昼間の妖術といおうか、薄っ気味の悪いほど似ているではないか。
「あっしはさっきからここに立って見張っていやしたが、誰一人出たものも、へえった者もござえません。しかし、あれが饗庭の屋敷とすると、これあどなたのお住まいですえ?」
 安がいった。誰の屋敷? 文次も知らない。
 鷹《たか》のような険しい眼をすえて、文次は黙って、その屋敷をみつめている。
 明様の土塀に型ばかりのお長屋門、そっと潜《くぐ》りをあけてのぞくと、数寄屋詰道句風をまねた飛び石づたいに正面の大玄関が見えて、何年にも手入れをしないらしく、雑草にうずもれて早咲きの霧島がほころんでいるぐあい、とにかく、一本一石、松の枝ぶり、枯れ案配、壁の汚点《しみ》から瓦《かわら》のかけ方、あたりのただずまい何から何まで、似ているのではない、全然同じなのだ。
 単なる偶然の一致?
 それにしては、すこしく念が入り過ぎていはしないか。
 裏はすぐ、饗庭の屋敷につづいている。
 とすると――?
 影武者というのは軍談で聞いたこともあるが「影屋敷」はこれがはじめて。
 はてな?
 いやいや、まさか! そんなばかな!
 文次は空を仰いで、からからと笑った。
「なあ安、世に間違えほど恐ろしいものはねえな。最初《はな》の間違えにまた間違えを重ねて、すんでのこっておっかねえお武家に一つ抜かせるとこだ
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