なかなかおりませぬが、此奴《こいつ》はなかなか使えそうで。――」
「起こしてみろ」
蒲団を蹴上げると、すっかり職人風に作った守人が寝ている。が、安がいるから何にもならない。文次の憤怒《ふんぬ》と恨みをこめて見た眼を無視して、安はとんきょうに叫んだ。
「ああ此奴です! 此奴だ! 此奴だ! 此奴が水戸の篁守人、顔にも覚えがあるし、肩をしらべれば、傷のあるのが何よりの証拠。――」
おお、そうだ――と邦之助の手が、寝ている守人の肩へ伸びた刹那《せつな》、もうだめと思ったか、むくり[#「むくり」に傍点]と起き上がった守人の手が夜具の下へ行ったかと思うと、隠していた帰雁が、白刃《はくじん》一|閃《せん》! おどり出たと見るまに、早くも捕手の一人、血煙立って倒れる。
同時に、文次の手には脇差、部屋の隅にふるえていたと見せかけたお蔦といえども剛の者だ。護身の短刀を手に――ここに深夜、殺剣の乱陣は開かれた。
行燈は消えて真の闇。
捕手の群れを相手に、守人、文次、お蔦の三人がここを先途と立ち働く。
踏み鳴らす足音、打ち込む気合い、魂切《たまぎ》る声、火花、白閃――。
そのあいだに四つの影だ、手を引き合うようにしていろは屋の物干《ものほし》から外へのがれ出た。
「やあ、い、いないぞ」
「逃げた、逃げた!」
「おお、安兵衛が斬られている」
「うむ、御免安兵衛が。みごとからだが二つになっているなあ。それにしても守人と文次へ一刻も早く手配りを。――」
という声々をうしろに聞いて、文次と守人、お蔦、おこよの四人は、すでに闇に呑まれていた。
烏羽玉の闇に朝が来た
それからまもなくだった。
新網の瑞安寺では掏摸の故買《けいず》の市が立って、神田連雀町の湯灌場買い津賀閑山が、江戸中の掏摸のすって来た煙草《たばこ》入れ、頭の物、薬籠などを競《せ》っていると、その場の宰領手枕舎里好のもとへ、人魚のお蔦が駈け込んで、これからいろは屋文次と、篁守人を先頭に、一挙して姿見の井戸へ押しかけ、うばたま組をあばこうという――よかろう、面白かろうというので、里好もおどり立った。
雲州、江州、遠州、なんかという強い乾分《こぶん》がそろっている。本堂から方丈へかけて寝泊まりしたり、ごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]している親分乾分の掏摸を集めると百人近い人数になった。それが夜明けへかけて、湯島の姿見の井戸へおのおの入口で黒い袋をもらっては保護を求めるような顔をして、二、三人、四、五人ずつはいり込んだ。
津賀閑山もその一人だった。
すっかり一同がはいり込んだのを見すまして、手枕舎里好がいきなり黒い袋を脱ぎ捨てるのを合図に、一同、袋をかなぐり捨て用意の獲物々々をふるい、周囲の三百近い黒い袋に打ってかかった。
姿見の底の割れる日が来たのである。
井底の乱闘は、乾分の掏摸などにまかせておいて、寄せ手のおもだった人たちは、奥の垂幕からかけ上がって、突如として白い袋を襲った。饗庭亮三郎である。
とわかると、それは国表の水戸で、守人の父篁大学を斬った守人にとっては親の仇だ!
内藤伊織や、帝釈丹三を片づけてしまって、里好と文次とお蔦が、看視している真ん中に、刀を与えられた饗庭亮三郎、悪鬼のごとき形相で、孝子守人の刃を受けかねている。
陽が上がった。
烏羽玉の闇は消えるであろう。
近く、三月三日を期して、水戸の志士が桜田門外の井伊大老を要撃することは、文次にはわかっているが、彼はもう、幕府の密偵《いぬ》ではなかった。
ちょうどこの時刻、相良玄鶯院は、へらへら[#「へらへら」に傍点]平兵衛を連れて雲水の旅に出ようとしていた。そして、ただ気がかりな新太郎を守人に托そうとして、守人の帰りを待っているが、新太郎が守人を通して、お蔦にあえば、お蔦としては親子としての覚えもあろう。が、それは、お蔦と守人にとって新しく生きる道へのさまたげとはなるまい。
守人が、帰雁に饗庭亮三郎の血を塗ったとき、下から里好の乾分の一人が上がって来て、笑いながらいった。
「みんな片づきやしたよ。もう、烏羽玉組は全滅でさあ」
朝の光が、抱き合ったお蔦と守人の上に落ちた。
底本:「巷説享保図絵・つづれ烏羽玉」立風書房
1970(昭和45)年7月10日第1刷発行
入力:kazuishi
校正:久保あきら
2009年1月28日作成
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