》のたまりの新網の瑞安寺《ずいあんじ》へ逃げてしまったが、遊佐銀二郎だけは、うばたま組の頭の命のままに、今にもここへやって来るというのだ。
 ここへやって来てどうする!
 いうまでもなく文次の命を目的に。
 と、聞いて文次は、手早くそこの戸へ心張りをくれると同時に光る眼で女を見すえて、
「して、お前さんそれをしらせに駈け抜けて来てくれたってえわけですかえ?」
「はあ、止めようと思って争いましたけど、きかずに来るもんですから、私は近道をして一足先に参りました。――どうぞお支度を」
「すると、来るのは一人ですかえ?」
「ええ遊佐銀二郎という――」
 と、このとき、その女のことばをおうむ返しに、
「何? 遊佐? 遊佐が来る?」
 と、いう声に二人が驚いて振り向くと、いつのまにおりて来たのか、文次の袢纒《はんてん》に、愛刀帰雁を引っつかんだ篁守人の立ち姿!
 一目見るよりお蔦はころぶように駈け寄って、
「貴方《あなた》は守人様! お久しうござります。ど、どうしてここに。――」
 守人はわれとわが身を疑うもののごとく、しばし女の顔をみつめていたが、くずれるように、上がり端《はな》へあぐらをかくと、そのままお蔦を引き寄せて大刀を持つ手で、ひしと抱き締めながら、
「お蔦か。おお! お蔦だな。お蔦だな――どうしておった。痩せたな。苦労したか――苦労したか、あいたかったぞ」
 声の出ないお蔦、守人の膝にすがって、身をもんで泣くばかり。
 仔細《しさい》ありと見てか、場をはずした文次、再び帰ったときは、手に脇差《わきざし》の鞘《さや》を払って、
「さあ、さあ、つきたての餅みてえにくっつい[#「くっつい」に傍点]ているときじゃありませんぜ。ここでね、文次もちょいと殺生のまねをしなくっちゃならねえ。お二人は二階へ。――」
 そのことばの終わらないうちに、戸の外で、銀二郎のだみ声だ。
「いろは屋さんはこちらですか。いろは屋の親分!」
「はい」
 文次は静かに答えて守人の顔を見る。涙にぬれるお蔦を押しやった守人、ひそかに帰雁を引き抜いて、あけるがいい、あけるがいい――と目くぼせ。
「あんたは怪我人だ。なあに、あっし一人で大丈夫――」
「遊佐なら人手を待たぬ。俺《わし》の心を察して、俺にまかせてくれ」
 命がけの仕事を二人は争っている。

   飼い犬に手をかまれるとは

 ぱっ! 文次が戸をあけた。
 さっ[#「さっ」に傍点]と流れ出る黄色い光のなかに、向かい合って立った守人と銀二郎。
 銀二郎にとっては意外の意外だ。思わず一歩下がって、
「やっ! 汝《なんじ》は篁!」
「またあったな」
 にっこり[#「にっこり」に傍点]した守人が、つかつかと、戸外へ出ると、銀二郎は押されて往来の真中へ。――
 たちまち!
 斬り込んで行った帰雁、斜になって流したはずの銀二郎の構えが遅かったか、ないしは足がくずれたか、右の肘《ひじ》から脇腹へかけて一太刀《ひとたち》受けた銀二郎。
「ううむ!」
 と、うなるとたんに思わず刀を取り落とす。そこを、ばっさり[#「ばっさり」に傍点]と唐竹割《からたけわ》りというが、そのままに斬って下げた。
 あざやか!
 とどめを刺した守人が、星空を仰いで死骸の着衣《きもの》で帰雁の血糊《ちのり》をぬぐったとき!
 わっとわき立った無数の人声。今までどこに伏せっていたものか、御用提灯の明りが、四方《あたり》の暗黒を十重二十重《とえはたえ》に囲んで、御用! 御用! の声も急に、邦之助の率いる捕手の一団が、雲のごとく、霧のごとく、群がり、どよめいて、迫り囲んだ。
 ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした文次、守人を家へ引きずり込んで、立ち騒ぐお蔦といっしょに、折から起き出たおこよに預ける。そして早口におこよの耳へ。
「姉さん、とうとう来たぜ、いつも頼んであるようにしてくれ」
 一言いうと自分はすぐに戸を閉めて、行燈を吹き消そうとしたが、そのときは、もう税所邦之助が、表を乱打している。あけると、身拵《みごしらえ》厳重に八丁堀の役人がものものしく押し込んで来た。
「文次、貴様の所に、篁守人がいると聞いてもらいに参った。重罪人をかくまった貴様も同罪、しょっぴいて行くからそう思え」
 その邦之助のすぐうしろに、にやり[#「にやり」に傍点]と笑っている御免安兵衛の顔を見つけて文次の腹は煮え返った。
 飼い犬に手をかまれるとはこのこと。
 どうもようすが変だと思ったら、御免安の奴、訴人をしたのだ!
 そんな者はおりませぬ。お疑いなら家探しを――となって邦之助の一行が狭い家を見まわるまでもなく、すぐに怪しい一人の男が見つかった、職人風の頭で蒲団《ふとん》をかぶっている。
「何だ、この者は?」
「新規に雇い入れた寿司の職人でございます。握り三年と申しましていい職人は
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