声を背後《うしろ》に、やがて守人は宵闇《よいやみ》の中へさまよい出た。ひやりと横鬢《よこびん》をかすめる水気に、ぱっと蛇《じや》の目《め》を差し掛けて、刀の柄を袖でかばった篁守人、水たまりを避けて歩き出した。
 この、人が家に納まるころおいに家を出て、いったいどこへ行こうというのだろう?
 しとしと[#「しとしと」に傍点]と春の夜の小雨が煙っている。


    ぬれ燕《つばめ》


   とんだあぶねえ二枚目だぜ

 真昼間《まっぴるま》の恐怖は、白っぽいだけに人の背筋へ氷のような戦慄《せんりつ》を注ぎ込む。何やら得体の知れぬ力に押えつけられてただしいん[#「しいん」に傍点]と心耳に冴え返るばかりだ。百万千万の視線が、眼に見えぬ槍ぶすまとなって、前後左右と上下に迫って、動いたが最後、ぷすっとどこからでも血が出そうな気がする。
 悪熱《おねつ》のようなこの静寂の中に、戸外から舞いこんだ桜ふぶきが悩ましく乱れ飛んでいる。
 この一刻は長い。
 湯島妻恋坂の影屋敷。
 花の吹き込む二階で、いろは屋文次と御免安が、手に汗を握って前方《まえ》をみつめていると――。
 ざ、ざざ、ざ――と襖があき出したが、これは向こう側に人がいるのだろう。いくら怪しい家でも唐紙がひとりで動くわけはない。
 とはいえ、この空家にさっきからの人声。さては、鬼が出るか蛇が現われるかと、文次と安は上半身を前へかがめて互いに充分な気配り。何かは知らぬが、相手しだいではもちろんどんなにでもあばれるつもりだ。
 と、さらり、襖があいた。
 縁から射す未《ひつじ》の刻の陽をまともに浴びて、ひとりの若侍が立っている。
 ぞろりとした着流しに長い刀《やつ》をりゃん[#「りゃん」に傍点]ときめて、所在なげに両手を帯前へ突っこんでいるのだが、それが、早い話が若様御成人といった形で、このところすくなからずあっけない感じだ。
 文次はほっ[#「ほっ」に傍点]と息をもらした。気負いかかっていただけにいっそうきょとん[#「きょとん」に傍点]として、取って付けたようなおじぎをすると、侍はもうこっちの部屋へ踏み込んで来て、二人の鼻っ先に迫っている。
 その顔を見て今度は文次、思わず、
「や! これは!」
 と心中|驚愕《おどろき》の声をあげた。
 まるで歌麿《うたまろ》の女である。月の眉、蕾《つぼみ》の口、つんと通った鼻筋に黒み
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