った。わかってみれあなあん[#「なあん」に傍点]のこった、われでせえ取りちげえるくれえだから、酔いと薄暗黒《うすやみ》のなかで、久七めが――いや、これあむりもなかろうじゃあねえか」
「久七? 久七たあ、どこの久七でごぜえます?」
「ほい、まだ話さなかったか、きのうの暮れ方、神田連雀町の津賀閑山の下男久七てえのが――」
「え? へえへえ」
「なにか、われ何か知っているのか」
「いいえ、どう致しまして、全くの初耳でげす。ところで、その久七てのがどうかしましたかえ」
「うん、主人の鎧櫃を饗庭へ届けたというんだが、それあ饗庭じゃなくて、このお屋敷に相違ねえ」
「よ、鎧櫃を? ふうむ」
「安、心当たりでもあるのか」
「とんでもねえ! がしかし、何がへえっていたもんでごわしょうの」
「さ、中はよくわからねえが、久七がここへ持ち込んだ物を、饗庭のほうへたびたび催促に行ったもんだから、短慮者《きみじか》をすっかり怒らせてしまったんだ。なあに、こう割れてみれあ世話あねえ。こちら様でもうっかり受け取りはしたものの、今は持ち扱っていなさるだろう。わけを話して下げてもらいさえすれあいいんだ。とんだお門違えだったもんよなあ、笑わしやがらあ、はっははははは、安、いっしょに来い」
 傍門《くぐり》をあけて文次がずい[#「ずい」に傍点]とはいり込むと、それに「ごめんやす」とも何ともいわずに安兵衛が続いて、陽だまりの草のなかを、
「おう、めっぽうな荒れようだなあ」
 と二人は何ごころなく石づたいに、ゆるくまわって、玄関の前へ出た。
 と、見るがいい!
 ぴったり締まって乾破《ひわ》れのした玄関の雨戸に、もう黄色くなりかけた一枚の白紙が、さも二人をあざけるように貼り付いて、墨痕《ぼくこん》鮮やかに――「かしや」と読める。
「ううむ」
 思わずうなると、文次はそのまま腕をこまぬいた。

   声はすれども姿は見えぬ

「安」
「親分」
「空屋《あきや》とは驚いたな」
「驚きましたね」
 おなじことをいい合っている。
 棒立ちになったきり、四つの眼は貸家札から離れない。主なき家のほとり、ひっそり閑として、春日いたずらにうららかである。
 二ひら三ひら、微風《そよかぜ》に乗って舞うともなく白いものが落ちてくるので、振り仰ぐと、いままで気がつかなかったが、屋敷の横から饗庭家との境へかけて、これはまたみごとな老
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