じろりやられただけで、ぞっと襟《えり》もとから恋風を引き込む。
そうだ、違えねえ。
あの女、あの女、紛れもねえあいつ[#「あいつ」に傍点]だ。
昨日の正午《ひる》、藪《やぶ》の内まで用たしに行ったついでに、祭の景気を見に随身門から境内へはいって、裏手念仏堂から若宮|稲荷《いなり》へかけての人ごみの中を、あわよくば掏摸《すり》の一人も揚げるつもりでさんざ[#「さんざ」に傍点]ほうつきまわった末、かねがね顔見識りの水茶屋嬉し野の床几《しょうぎ》へ腰を掛けると、儲け潮にうるさいやつ[#「やつ」に傍点]が舞い込んだものと思ったらしく、
「おや、親分さん、ようこそお越しでござんした」
親分さん、と来た。そして、看板女《かんばん》のおきんに茶をくませて出したが、その湯呑《ゆのみ》の下に、案の条、二朱包んであった。奴体《やっこてい》に、出盛りの店頭をふさがれてはたまらないから、何にもいわずにわかってもらおうという袖の下だ。心得て立ち上がったとき、ちら[#「ちら」に傍点]と見たのがあの女である。
そこはこっちも八丁堀お箱持ちの端くれ、決してむだに歩いてはいない。こぼれ[#「こぼれ」に傍点]があったらいつでも拾う気でいるところへ、その女のことが、
「や! あれ[#「あれ」に傍点]じゃないかしら?」
ぴいん[#「ぴいん」に傍点]と頭へ来たことがあるから、
「そこへ行くのは嬉し野のおきんさんじゃあねえか」
と一つ、時代にぶっつけておいて口裏を引いてみると、女は何にもいわずにまじまじ[#「まじまじ」に傍点]とこっちの顔を見ていたが、そのうち捨て科白《ぜりふ》を残して逃げ出した。しかも女だてらに辻駕籠を飛ばして、神田連雀町の横丁で小器用に抜けやがった。
ううむ、違えねえ。
あれ[#「あれ」に傍点]に相違ねえ。
――浮世小路から帰って来た御免安兵衛、雲母橋際《きららばしぎわ》の裏店《うらたな》に寝そべって、しきりに昨日のことを考えている。
二本の脚を柱へ突っかえて、あおむけのまま、黄色くなった畳のけば[#「けば」に傍点]をむしっているのだが、さすがに戸外《そと》は春、破れ障子にも日影が映えて、瀬戸物町を往く定斎屋の金具の音が手に取るよう――春艶鳥《はるつげどり》の一声、あってもいい風情《ふぜい》だ。
あの女は――と御免安、柄にもない物思いにふけりつづける。
湯屋のを借
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