すよ」というのが聞こえる。
 はてな、誰だろう――。
 と思っていると、おこよが顔を出して、
「津賀とかっていう人が来たよ、お爺さんの」
「津賀? 知らねえな。ま、通してくんねえ」
 手早くそこらを片づけながら、文次ははいって来る男を見た。
 連雀町の湯灌場買い、例の津賀閑山で、閑山は閑山だが、これはまたおそろしくしょげ返った閑山である。蒼《あお》い顔に眉根《まゆね》を寄せて、今にもべそ[#「べそ」に傍点]をかきそうなようす。いったいどうしたということだろう。
「お初に――」挨拶《あいさつ》がすむとすぐ、閑山は、早瀬の堰《せき》がとれたように一気にしゃべり出した。
 かれの話はこうである。
 昨日、飯たきの久七という者に車をひかせて、商売用の大切な品を入れた鎧櫃《よろいびつ》と、お得意へ届ける九谷焼きの花瓶とを持たして出した。
 花瓶は妻恋坂の旗下《はたもと》饗庭様のお邸へ、鎧櫃は向島関屋の里の自分の寮へ。
 ところが、ゆうべ向島へ行って見ると、座敷の真中に花瓶が一つころがっているから、閑山驚いた、急いで駕籠を飛ばして店へ引っ返すと、ちょうど久七も帰っていたが案の条、喰《くら》い酔っていて、さっぱり要領を得ない。押したりゆすぶったりして、やっとのことで訊《き》きただしてみると、いやはや、とんだ間違いをしたものだ!
 久七め、鎧櫃を妻恋坂のお屋敷へ渡しちまって、花瓶を向島へ持って行ったという。
 もちろん、最初妻恋坂へ寄るつもりで、明神下へさしかかったところが、一軒の縄暖簾が眼についた。好きな道。す通りはできない。どうせ帰りは夜になる、使い先だが、まあ一杯ぐらいはよかろうとはいりこんだのが、ついに二杯三杯と腰がすわって、久七すっかりいい気持ちになってしまった。
 で、品物をあべこべ[#「あべこべ」に傍点]に届けたのだ。
 さあ、驚きあわてた閑山、しかってみたところでおっつかない。朝になるのを待ちかね、自身妻恋坂へ出かけてゆうべの粗忽《そこつ》を謝し、あらためて花瓶を渡して、さて、鎧櫃を下し置かれましょうと申し入れると、
 鎧櫃! そんな物は知らぬ。さらに受け取った覚えがない。
 ――というきつい挨拶。頭からかみつくようにどなられて、閑山すごすご[#「すごすご」に傍点]と引き取って来た。
 しかし、酒こそ呑《の》むが、久七は長年勤めた忠義者、まさかに嘘《うそ》をついてい
前へ 次へ
全120ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング