何者かわかる機会があっても、わかろうとしてはいけないのが、この姿見井戸の定法だから、とみにはそばに近寄ろうとはせずに、これだけの秘密を知ってすでにここまではいって来た以上は、一味の者として、何の怪しむ必要はないと認めているもののごとく、その影が静かにいった。
「今、袋を持って来てやるから、待っておれ。何人だ? ああ二人だな」
影はそのまま引っ込んで行って、まもなく、その方角から、どさりどさり[#「どさりどさり」に傍点]と、重い布地《きれじ》が飛んで来て、二人の顔やからだを打った。お蔦は蝙蝠《こうもり》かと思って、ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたが、里好は慣れたもの、
「これ、これ!」
と喜びの声をもらして、そこらに落ち散った布を集めている。拾い上げてみると、黒い布を、ずんどう[#「ずんどう」に傍点]の袋に縫ったもので、頭から手足まですっかり包んで眼だけ出るようにできている。里好にいわれてそれを着けたお蔦は、何だか自分からこの世を離れて、全然別な世界へ来たような気がした。里好も、もう一塊の黒い袋と化している。二人は顧《かえり》み合って、袋の中でにっこり[#「にっこり」に傍点]した。
一つの袋が歩き出す。
他の袋がついて行く。
まるで、南海の怪鳥《けちょう》が行列を作っているようである。それはもうお蔦でもなければ、里好でもない。二人はただ、うばたまの闇黒にうごめく烏羽玉の果《み》の一つ二つだ。
木の下道のような暗い細いところを、あれで二、三十歩も行ったであろうか。
「下りだ、気をつけなさい」
という里好の声で、お蔦が足をすべらせないように木で張った梯子段《はしごだん》をおり切ると、眼の前の二間ほどの所に、荒筵《あらむしろ》が二枚だらり[#「だらり」に傍点]と下がっていて、その目を通して、何やら黄色い光が、地獄の夢のように、ぼうっともれている。
「お仲間がたくさんいますよ」
里好の声は笑っていた。
どうも不思議な御縁だねえ
こうしてお蔦が井戸の底の生活にはいったのは、何日前のことであろうか。
夜も昼もないここでは、日のたつのは数えようもなかったが、三つの食事を一日としても、もうだいぶんの日数がたっていなければならない。そのあいだに何が起こり、どんな出来事が発生したか。
何事もなかった。
ただ、同じ扮装《いでたち》をした三百人近くの人数と
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