お蔦が手枕舎里好に伴われて、三味線堀の家を出てから、黙って里好について行くと、里好はあれから、神田明神下へ出て、深夜の妻恋坂を上って行った。
この上の家にはお蔦にとっていやな思い出がある。神田連雀町の閑山の家から、鎧櫃にはいって出て、飯たき久七の間違いで、届けられた饗庭の影屋敷、そこでの恐ろしい記憶は、まだお蔦の心にからんでいた。
で、二、三軒先を行く里好にきいてみた。
「あの、どこへ行くんでございましょう? その姿見の井戸というのはいったいどこなんでしょうか?」
が、里好はそれには答えず、星屑のこぼれるような空を仰いで、ただ坂を上る足を早めた。
お蔦は軽い不安にとらわれざるを得なかったが、今となってはひくにもひけないし、この里好という人についてさえ行けばたいした心配はないような気がする。仮にまたあの家へ行くにしても、何か機械《からくり》のありそうな影屋敷の内部《なか》をのぞいて見ることも、何となくお蔦の好奇心をそそのかすのだった。
里好が振り返った。
「誰が誰だかわからんのが姿見の井戸の底のみそ[#「みそ」に傍点]なんだから、あんたも女ということを気づかれんように、なるたけ物をいわずに、いうときには太い声を出して、できるだけ活溌《かっぱつ》にふるまいなさい。なに、みんな脛《すね》に傷もつ連中ばかりだ。たいしたことはない」
そのうちに坂を上りきると、立売坂の中腹に、饗庭家と同じ造りの影屋敷の門が見える。そこまで行くと、里好はまたお蔦を顧みて、
「ここだ」
と、一言。
どんどん中へはいって行く里好につづいて、お蔦も門をくぐりながら、この家なら一度来たことがある。実はここから逃げ出したところを追っかけられて、お前さんに助けられたのだと里好に話したかったが、その暇もなかったし、また彼女の中の用心深い何物かが、いい出そうとする彼女の口を、ことばにならない先に押えてしまった。
門をはいると荒れ果てた小庭。
それについて背戸のほうへまわると、そこに夜目にも白く冷たく石で囲った大きな井戸があるのがお蔦の眼にはいった。
里好は再び振り返って、
「これだよ、驚いたかね」
と、いったかと思うと、やにわに変なことを始めた。足もとを見まわして、小石を一つ拾うが早いか、そいつを、ぽんと井戸の中へはうり込んだのである。
ぽちゃり[#「ぽちゃり」に傍点]という水音。何だ
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