たしでございますか」
「いまお前が随身門をくぐったときから、おいらあ跡をお慕《して》え申して来たんだ。はははは、いつもながらお前の美しさは見たばかりで胆魂《きもたましい》もぶっつぶれるわ。どうぞなびいてやりてえものだが――おいどうしたえ、いやにすましているじゃあねえか」
女はちら[#「ちら」に傍点]と眼を動かした。護摩堂《ごまどう》から笠神明《かさしんめい》へかけて、二十軒建ちならぶ江戸名物お福の茶屋、葦簾《よしず》掛けの一つに、うれし野と染め抜いた小旗が微風《そよかぜ》にはた[#「はた」に傍点]めいているのが、雑沓《ざっとう》の頭越しに見える。
女はにっこりした。男はぴったり[#「ぴったり」に傍点]と寄りそって、
「なあ、おきんさんがおいらを見忘れるわけはあるめえ。何とかいいねえな」
「でも――」
「なに?」
「いやだよ、この人は!」がらり、女の調子が変わった。月の眉《まゆ》がきりり[#「きりり」に傍点]と寄ると、小気味のいい巽《たつみ》上がりだ。
「何だい。人だかりがするじゃないか。借金《かり》でもあるようでみっともないったらありゃあしない。お離しよ」
とん[#「とん」に傍点]と一つ、文字どおりの肘鉄《ひじてつ》をくわせておいて、女はすたすた歩き出した。
水茶屋嬉し野の釜《かま》前へ?
そうではない。もと来た道へ帰ると、お水屋額堂を横に見て仁王門、仲見世《なかみせ》の押すな押すなを右に左に人をよけて、雷門《かみなりもん》からそのまま並木の通りへ出た。
青い芽をふくらませた辻の柳の下を桃割れの娘が朱塗りの膳を捧げて行く。あとから紅殻格子《べにがらごうし》が威勢よくあくと、吉原《よしわら》かぶりがとび出して来る。どうもえらいさわぎだ。
「どこかで見たような顔だねえ」
人ごみのあいだを縫いながら、女はふ[#「ふ」に傍点]とこう思って、うしろを振り返った。のっそり、のっそりと、さっきの奴姿がついて来る。四、五間うしろにその赫《あか》い平べったい、顔を見いだしたとき、女は、
「まあ、いけ好かない野郎だよ。酔っているんじゃないかしら」
とかすかにくちびるを動かしたが、また小走りに急ぎ出す。男も、にやりと笑《え》みをもらして、尻《しり》っぱしょりをぐいと引き揚げると、今度はおおびらに跡を追いはじめた。
広小路《ひろこうじ》を田原町《たわらまち》へ出て蛇骨《じ
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