たいて、竈《かまど》の奥から雪隠の中までほとんど夜っぴてのぞきまわったが、猫の子一匹出て来はしない。屋根裏、床下も見落としはしなかった。
とど朝になって報いられたところは、何らの抵抗を示さない老主玄鶯院の無言の嘲笑と、それから捕方の意気の沮喪《そそう》のみという税所邦之助としてははなはだ面白からぬ結果であった。
加うるに今朝はまた、幕府方秘密の刺客の一人が堀田原の馬場に死体となってころがっていたとのはなし。
それに、近ごろことに頻々《ひんぴん》として起こる死に花の一件――人体に根を張って生命を奪う怪しい草花。
「いろは屋はいったい何をしているのだ」
この場所柄を忘れて、独語《ひとりごと》が邦之助の口をもれる。
待つ身はつらいというが、もう一刻にもなろうとするけれど、税所邦之助はその点ではちっともつらくなかった。それどころか今は緊張と動悸《どうき》とではち[#「はち」に傍点]切れそうで腋《わき》の下に汗をかいている。
生まれて始めてすわった壮麗な座敷に、邦之助はひとり控えさせられているのだ。
袴の両わきから手を入れて頭を下げたまま、上座には主待ち顔の大褥《おおしとね》、それに引き添って脇息《きょうそく》が置いてある。
やがて、はでやかな衣類に胸高に帯を結んだ奥女中が、燭台を捧げてしとやかにはいって来た。白い顔が夢のように浮かんだと思うと、ゆらり[#「ゆらり」に傍点]と一揖《いちゆう》して出て行く。
金泥と蒔絵《まきえ》に明るい灯が踊っている。
八百八町の雑音もここまでは届かない。
桜田御門外はさいかち[#「さいかち」に傍点]河岸《がし》、大老|井伊掃部頭《いいかもんのかみ》様お上屋敷の奥深い一間である。
この直弼《なおすけ》という人は『作夢記事』などという本は「井伊掃部頭殿は無識にして強暴の人なり」とだいぶこっぴどくこきおろしているが、強暴というのはいってみれば闘志|熾烈《しれつ》の別名で、あくまでも我を貫こうとする見識は、往々にして無識にも見えようというものだ。剛腹で自主の念が強かったというが、これは何事も調べ上げ、きわめ尽くした事実の上に立っていたからこそで、そこで無識とののしられ強暴と折り紙を附けられたのであろう。
とにかく普通一般の殿様が下情に通じようなどという道楽気分からではなしに、井伊直弼は政務の一端としてよく市井の音に耳を傾けて
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