り飛ばされてこの始末よ」
「おうやおや、お前も投げられた組か」
「自慢じゃねえが、真先にやられた。俺が来たときあちょうど始まるところだったから、おのれってんで武者振り――」
「おいおい、わかったってことよ。そう身振りをしちゃあ泥が飛んでしようがねえ」
「そうか。どっちへ行った、女は?」
「野郎といっしょにあっちへ行った」
「あっちへ行ったといって、立って見てるやつもねえもんだ。追っかけねえのかよ。じれってえな、こいつら」
 やつ当たりの丹三について、一丁先の曲がり角までぞろぞろ[#「ぞろぞろ」に傍点]行ってみたが、男も女もとうの昔に姿を消している。
「おらあ帰って、殿様に合わす顔がねえ」
 丹三が泣き出しそう。
「なあにお前、案ずるこたあねえさ。そのまんま持って行くがいいや、どうも裏表なしの塗りつぶしと来てらあ」
 ひどいことをいうやつもある。
 頭巾で包んでいたから相手の顔はわからないが、明らかに武士《さむらい》ではない。
 かといって、あんなに強い町人があろうとも思われぬ。
 男を売るのが商売の侠客《きょうかく》か。
 とにかく、網の中の魚を大海に逸したも同様で、今さらこぼ[#「こぼ」に傍点]しても六日のあやめだ。
 美人をかつぐ代わりに、臭気ふんぷんたる真っ黒くろ助の帝釈丹三を遠巻きにした一行が、すごすごともとの坂へかかったころ。
 東天紅。
 と一声、早い一番|鶏《どり》の鳴く音。
 お江戸の朝は、まず薄紫の空から明けはじめる。

   三味線堀《しゃみせんぼり》の宗匠|手枕舎里好《たまくらやりこう》

 ここは下谷《したや》、三味線堀《しゃみせんぼり》。
 めっかち長屋の一|棟《むね》、狂歌師|手枕舎里好《たまくらやりこう》と名乗る男の家である。
 よほどぐっすり眠ったとみえて、女が眼をさましたときは、一間きりない部屋に、もうだいぶ長い陽脚がさし込んで、勝手もとで主人《あるじ》の里好の味噌《みそ》をする音がしていた。
 寝過ごしたのが気恥ずかしくて、いそいで、起きようとすると、夢で泣いたものか、枕紙がひんやり[#「ひんやり」に傍点]湿っている。きのうからのことが思い出されて、おびえたこころは泪《なみだ》っぽくなっていた。
 手早く床をたたんで身じまいをした。敷き蒲団の下に入れておいた金包みを肌《はだ》へ巻くには、音のしないように気をつけなければならなかった
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