真ん中で、守人は遠くへ耳を澄ました。あたりを打つ雨音の底に、夜のふけるひびきが陰深と鼓膜を[#「鼓膜を」は底本では「鼓膜と」]衝いて、安兵衛も、黒装束の人数も引き返してくる気勢《けはい》はない。雨に眠る巷《まち》の、真っ暗なたたずまい[#「たたずまい」は底本では「ただずまい」]である。守人は小手をかざした。
「や、降るわ、降るわ。天の箍《たが》がゆるんだとみえる。うむ、このこころの塵《ちり》を洗い清めるまで降れ! 世の人も押し流して、降って降って、降り抜くがよい。ははははは」
口の中で笑って、かれはもと来たほうへ歩き出した。いつしか風さえ加わったらしい。大粒の水が頬をたたいて、ぬれた裾は、板のように足の運びを妨げる。
それはもう春雨などという色っぽいものではなかった。新しい時世を生み出そうとする陣痛と、わずかに残骸の威をかりて一日の余喘《よぜん》を保とうとしている今日の徳川幕府、この衝突を中心に、目下全国いたるところに血を流し、肉を飛ばしている悲雨惨風、これをそのまま形に表わしたような、すさまじい暴風雨《あらし》の夜となっていた。
が、守人の心中には、浮世のあらしよりも、今夜の雨風よりも烈しい、大きな渦《うず》がまいていた。近寄る人をまき込まずにはおかない愛慾《あいよく》の鳴門《なると》だ。守人は全身に雨を受けて、手負いのようにうなりながら、帰路《かえり》を急いだ。
「そこもとの身にはある筋の眼が光っておることをよもやお忘れではあるまい」
方来居を出るときに玄鶯院がこういった。このある筋とは何をさすものか、それは、いうまでもなく守人にはわかっている。わかっていて、なおかつ愛刀帰雁を唯一の護身者として、こうして暗黒《やみ》に紛れて出て歩くには、守人にしても、そこによほど重大な用向きがなくてはかなわぬ。
じっさい守人は、このごろ毎晩のように歩きまわるのだ。月が照れば照ったで月夜烏のように、雨が降れば降ったで雨を切ってぬれ燕《つばめ》の飛ぶように、かれは夜ごとに家をあけて、どこをどうぶらつくのか、暁近くこっそりと方来居の裏木戸をくぐるのが常だった。
そのときいつも必ず目をさましている玄鶯院は、そばの冷たい寝床へはいる守人をただじろりと見やるだけで、ついぞことばをかけたことはなかったが、守人は蒲団《ふとん》をかぶるまえに、玄鶯院に指を出して見せるのだ。それが人さ
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