のと、そんな不吉な夢じゃあなし、いいよ。気にしっこなし!」
叱るようにこころに繰り返して、やっと晴ればれしかけたが、あの、夢で自分を待っているような気のする男というのは、誰だろう? ふとそう思うと、かの女は、不必要にどきりとした。
考えまい。考えないことにした。いくら考えても、わかるはずがないのだった。お久美の意思が、そう固くきめられたとき、簾戸《すど》があいて、庄吉の元気な顔が、茶の間へはいって来た。
若わかしい、恰幅《かっぷく》のいい庄吉だった。驚くべく夢とは関係のない、およそ現実な存在だった。
お久美は、たのもしかった。ふり仰いで迎えた眼に、やわらかい媚びがあった。
「どうなさいました。」
「江島屋の納品が片づかねえので、やきもきさせられる。」
「まあ、一服なすってからのことになさいまし。」
「暑いな。拭いてもふいても、汗で、やりきれない。」
すわりながら、
「見てくれ。これだ。」
背中を向けた。上布が、円く、水を置いたように濡れていた。
「江戸に、こんな夏は初めてです。気が狂いそうだ。何だ、切通しの猿飴か。ありがたい。」
下戸《げこ》なので、お久美の絶やさない甘
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