思議なのを通りこして、途方もなく愚かしいことに感ずるだけだった。こどものころにどこかであの絵を見たことがあって、その時の恐ろしい印象が、記憶の下積みになって意識の底に潜在しているのだろうか。そして、それが、地下を流れる暗い小川のようにつづいて来て、時どき心理の表面に夢となってあらわれる。そんなことがあるだろうか。しかしお久美は、どう考えても、あの絵を見たおぼえがないのだった。
 夢は、その夜もかの女へ来た。つぎの晩も、夢を見た。庄吉が真剣に心配し出したほど、お久美は眼に見えて、瘠せおとろえて往った。
 悄《やつ》れたかの女のまえに、庄吉の呼んできた医者が、すわっていた。
 庄吉は、世のすべての夢などというものから、極端に離れた、常識家らしい顔をにこにこさせて、
「お久美、よく診てもらうがいい。魘《うな》されることを、お医師さまに詳しく話してみな。何だか知らないが、わたしはどうも馬鹿なことを気にしているとしか思えないのだ。心気の凝りというやつ、ねえ、先生、そんなところでございましょう。」
 医者は黙って、お久美の顔を見ていた。
「やっぱり、あなたも怖くなったんでございますね?」
 お久美が、静かにふり向くと、ふき上げるような庄吉の哄笑《わらい》だった。
「冗談じゃあない。何が怖いもんか。だが、毎晩大きな声で起こされたんじゃあ、からだが保たないからな。わたしは、昼忙しいだけに、夜はぐっすり寝かしてもらいたい。ははははは。」
 医者の見立ては、はじめからわかっているとおりだった。お久美は、身体も、頭脳も、どこも何ともないのだった。ただすこし何か気を使い過ぎて、疲労しているだけだった。あの不安な夢を見つづけるのは、からだのぐあいの結果ではなく、その原因なのだった。それには、まず土地を更えて、しばらくぶらぶら遊んでいるのが、一番いいということになったのだった。この江戸の暑さからかの女を移して、どこか涼しいところで静養させるのが、第一だというのだった。まったくこのごろの狂気じみた暑さが、人の神経に異様に影響しつつあることも、事実だった。完全に環境をかえる。医者は、そういいたいのだった。
「居は気を移す、と申しますでな。」
 そんなことを言って、帰って行った。

 つめたい、新しい海岸の空気を、お久美はすぐに想った。ぼんやり歩きまわって、夜は、よく眠れるに相違なかった。夢のない熟
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